ドイツ民主共和国国境警備隊

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ドイツ民主共和国国境警備隊兵士(1979年)

ドイツ民主共和国国境警備隊ドイツ語: Grenztruppen der DDR)とは、ドイツ民主共和国東ドイツ)の国境警備隊である。

概要[編集]

ドイツ民主共和国の国境警備隊である。配置は、主に、西ベルリンも含めたドイツ連邦共和国(西ドイツ)との国境に向けられたが、ポーランドチェコスロバキアとの国境にも、合計600人ぐらい配置された。

国境検問所にて、西ベルリンも含めた西ドイツより入る通行者の通行証の管理も、国境警備隊の部署が行った。

AK-47アサルトライフルが、各隊員に装備される。外部から進入するスパイなどの侵入者の摘発・阻止よりも、東ドイツから西ドイツに脱出を図る市民への発砲殺害が、注目されることとなる。

沿革[編集]

1946年12月1日より、「ソビエト軍占領地区」を守るためのドイツ人による「ドイツ国境警察」(Deutsche Grenzpolizei)が設立となり、最初は、3000人であったが、1948年4月で1万人を超える組織となる。1949年10月7日ドイツ民主共和国成立後も、同じ名称で継続される。1950年には、18,000人を超える組織となる。「警察」という組織から、「国境警備軍」たる組織が求められることとなる。

1961年、軍隊組織としての「ドイツ民主共和国国境警備隊」(Grenztruppen der DDR)が組織されることとなり、管轄が内務省から国防省に移る。同年8月13日ベルリンの壁建設となる。同年8月24日に亡命しようとしたギュンター・リフティンが殺害されるという最初の『ベルリンの壁』射殺事件が起きる。1962年8月17日に亡命しようとしたペーター・フェヒターが殺害された事件は、アメリカ合衆国を始めとした西側各国で注目されることとなる。亡命者殺害は、以後も繰り返されることとなる。一時、国軍である国家人民軍Nationale Volksarmee)の部隊となるものの、1973年に国家人民軍から分離する。1989年2月6日、国境警備隊兵士のインゴ・ハインリッヒらが、亡命を企てたクリス・ゲフロイを射殺するという、ベルリンの壁亡命者殺害の最後の事件が起きている。

ベルリンの壁崩壊後、西ベルリンの警官達とコーヒーを飲みながら談笑する国境警備兵(1989年11月14日)

1989年11月9日午後7時ごろ、社会主義統一党政治局員でスポークスマンギュンター・シャボウスキーが、旅行の自由化を発表するが、国境検問所に殺到した東ドイツ住民の要求に従い、現場の国境警備隊の将兵の判断で午後10時45分に国境検問所が開けられ、東ドイツ住民が西ドイツを訪れることとなる。翌日より、東西のベルリン市民が壁を破壊し始めるが、止めさせることはしなかった(ベルリンの壁崩壊)。1990年6月13日、残っているベルリンの壁の撤去が、国境警備隊の作業としてなされた[1]

1990年7月1日に、西ドイツとの国境警備業務を終了し、1990年9月に、閉鎖となる。

亡命阻止作戦行動[編集]

東ドイツより西ドイツへ脱出を図る市民が続出し、特に医師や技術者などの労働者の流出は、東ドイツの首脳陣にとって、重大な問題であった。特に、1961年8月12日までは自由に行き来出来たベルリン地区での脱出を、やめさせようと対策が練られ、ベルリンの壁建設になる。同年8月13日、東ベルリン内部に鉄条網を引いて、西ベルリンへの人の流出を厳然と規制し、その中で壁を築いた。壁を越えて西ベルリンに行こうとする人を、国境警備隊の兵士が射殺する事件が続出する。東ドイツ存続期間で、ベルリンで197人が射殺されたとされる。射殺前に、警告し、できれば逮捕することになっており、東ドイツ存続期間に3000人ほどがベルリン地区で逮捕されている。亡命者の中には、子どもを連れているのもいて、2007年8月15日に発見された内部資料には、「たとえ越境者が女性や子供を連れていたとしても、武器の使用をためらってはならない。反逆者がよく使ってきた手だ」という秘密指令が見つかる[2]。『ベルリンの壁』で殺害されたことが確定している136人のうち9人が子どもであった[3]

国境警備隊の隊員の中からも、西ドイツへ脱出を図る者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡したとされている[4]。東ドイツ存続期間で、574人の国境警備隊員が、ベルリンから亡命した[5]。 1968年時点では、総勢8000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、『ベルリンの壁』担当の警備兵となっていた[6]。12時間勤務であり、単独行動でなく2人一組で行動することが求められていた[6]。銃撃により逃亡を阻止するばかりでなく、逃亡を試みる者から銃撃されることもあり、勤務中に射殺された警備兵は16人であったが[6]、その約半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった[6]

ベルリンばかりでなく、西ドイツとの国境での、亡命者の摘発および射殺事件は続出した。1964年に、国境地域に地雷を設置する[7]1971年には、自動発砲装置を設置する[7]。西ドイツでの国境地帯では、ベルリンのよりも殺傷を狙った作戦行動に出ている。西ドイツを含めた西側より非難があり、地雷については1985年まで、自動発砲装置については1984年に撤去されたこととなっている[7]。ドイツの市民団体『ワーキンググループ8月13日』(Arbeitgeminschaft 13 August)が2004年8月13日に出した数字によれば、1065人が殺害され、その中には、37人の国境警備隊隊員も含まれている。

1990年10月3日ドイツ再統一となるが、ドイツ連邦共和国の司法当局により、射殺命令を下した幹部および射殺の現場に立ち会った兵士に対して、捜査および起訴・裁判などの法的手続きがとられる。射殺の現場にいたことが確実な兵士が、「弾を外して撃った」との主張し、無罪を求めることもあった。射殺命令を実行したと認定された兵士に対しても、最終的には、執行猶予付きの判決が確定している場合がほとんどである[8]。「殺意なき殺人」として処理されている[8]1962年8月17日に射殺されたペーター・フェヒターの事件で、1997年3月に、実行者の兵士、ロルフ・フリードリッヒに20ヶ月、エーリッヒ・シュライバーに21ヶ月、それぞれ、執行猶予のついた懲役の判決が下る。1989年2月6日に射殺されたクリス・ゲフロイの事件で、実行者の兵士の1人のインゴ・ハインリッヒが起訴され、3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に執行猶予付きの2年の懲役が確定している。

注釈[編集]

  1. ^ YouTube - 5-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  2. ^ 旧東独ベルリンの壁での射殺命令、捜査を検討 - AFPBBNews
  3. ^ 「ベルリンの壁」での死者は少なくとも136人 - ロイター
  4. ^ YouTube - 3-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  5. ^ ベルリンの壁データ - ベルリンの壁写真館
  6. ^ a b c d YouTube - 4-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  7. ^ a b c 間違えやすい常識 - ベルリンの壁写真館
  8. ^ a b YouTube - 6-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~

関連項目[編集]