クトナー・ホラ

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クトナー・ホラ
Kutná Hora - pohled od Svaté Barbory.jpg
聖バルボラ教会からの眺め
Kutna Hora CZ flag.gif COA Kutna Hora.gif
位置
クトナー・ホラの位置の位置図
クトナー・ホラの位置
座標 : 北緯49度57分 東経15度16分 / 北緯49.950度 東経15.267度 / 49.950; 15.267
歴史
建設 13世紀
市長 Ivo Šalátek
地理
面積  
  域 33.05 km2
標高 254 m
人口
人口 (2006年現在)
  域 21,142人
    人口密度   640人/km2
公式ウェブサイト : www.kutnahora.info

クトナー・ホラチェコ語Kutná Hora中世チェコ語:Hory Kutnéドイツ語:Kuttenberg)は、チェコ中央ボヘミア州の都市。13世紀から16世紀プラハを凌ぐ経済・文化・政治都市だった[1]1995年から、市中心部がUNESCO世界遺産に登録された[2]

歴史[編集]

クトナー・ホラの町は1142年シトー会の修道院がセドレツに建てられたことから始まる。1260年までに、修道院の領地内のクッテンベルク山でドイツ人鉱夫によって銀の採掘が行われるようになった。山の名前は、古いチェコ語で修道士がかぶる「僧帽Kutten」または「採鉱kutání」に由来するとされる。13世紀の経済発展により銀の需要が高まっており、修道院は大きく発展した。

銀が産出された最も古い記録は10世紀に遡る。現在クトナー・ホラの一部であるマリーンからは、985年から995年に製造された銀製通貨ディナールが発見されている。

1289年に正式に都市となり、1300年ボヘミアヴァーツラフ2世によって王立造幣局が設営された。ここで鋳造された銀貨はプラハ・グロシュと呼ばれ、広くボヘミア内外に流通した。市は急速に発展し、ボヘミアでプラハに次いで重要な都市となった。造幣局を兼ねた王の邸宅(通称「イタリア宮」)には代々のボヘミア王がしばしば滞在した。1409年1月18日には、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が、プラハ大学の改革を定めた有名なクトナー・ホラの勅令に署名した。

1419年にフス戦争が勃発すると、皇帝ジギスムントは、クトナー・ホラをフス派に対抗する拠点とした。1421年12月、ジギスムントはフス派急進勢力ターボル派ターボルの町を拠点とした)を率いるヤン・ジシュカに敗れ(クトナー・ホラの戦い)、町はジシュカに攻略された。一時的な和解の後、ターボル派の手中に町が再び陥落するのを妨げようとした神聖ローマ帝国軍によって、1422年、町に火が放たれた。それでもなおジシュカは町を手放さず、ボヘミア人の保護下で再び繁栄の時代を迎えた。

しかし15世紀後半以降、銀が枯渇し初め、1541年には最も資源に富んだ坑道が水没した。皇帝フェルディナント1世に対するボヘミアの反乱で町は全ての特権を失い、黒死病三十年戦争の戦禍でクトナー・ホラは廃墟と化した。平和が回復された後、廃れた鉱山を修復する試みは成功せず、町は衰微した。1770年には大火に見舞われ、鉱山と造幣局は18世紀終わりまでに閉鎖された。

建築物[編集]

クトナー・ホラと隣接するセドレツの町は世界遺産に登録されている。地域にある最重要の建築物はゴシック様式で、5つの本堂を持つ14世紀の聖バルボラ教会、13世紀終わりに建てられたかつての王宮で硬貨鋳造所であったイタリア宮がそれにあたる。ゴシック様式の『石の家』は1902年から博物館として利用されており、国内有数の公文書を保管している。ゴシック様式の聖ヤクプ教会は83メートルの塔を持つ。セドレツには、ゴシック様式の聖母教会と有名なセドレツ納骨堂がある。

みどころ[編集]

関連項目[編集]

姉妹都市[編集]

参考[編集]

  1. ^ Discover Czech”. 2007年3月7日閲覧。
  2. ^ UNESCO page on Kutná Hora”. 2007年3月7日閲覧。

外部リンク[編集]