オズワルド・モズレー
オズワルド・モズレー(Sir Oswald Ernald Mosley, 6th Baronet、1896年11月16日 - 1980年12月3日)は、イギリスのファシスト指導者。国会議員。息子は弁護士で国際自動車連盟(FIA)元会長のマックス・モズレー。
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略歴[編集]
生い立ち[編集]
ロンドンに第5代準男爵の子として生まれ、のち第6代準男爵となる。イギリス最古のパブリック・スクール、ウィンチェスター・カレッジからサンドハースト陸軍士官学校(1914年1月に入学)という、上流階級子弟の典型的なエリートコースを進む。ただし、同年6月に同校を退学処分となっている。1920年にジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)の娘シンシアと結婚(3人の子をもうけたが、シンシアは1933年に腹膜炎で死亡)。
政界[編集]
第一次世界大戦に従軍後、22歳で保守党から代議士で当選(1918年-1924年)。その2年後に保守党を脱党。暫く無所属となるも、1924年に労働党に入党。1926年に再度、代議士となる(1926年-1931年)。1929年に労働党のラムゼイ・マクドナルド内閣にランカスター公領相として初入閣を果たす。
しかし保守的な党の体質に幻滅し1930年に大臣を辞して離党、より強力な政府の統制を主張して新党 (New Pary) を結成する。だが、翌1931年の総選挙では、新党は自らを含めて候補者が全員落選の憂き目に遭う。
ファシスト[編集]
1932年にドイツとイタリアを訪問。ドイツでのナチスの盛り上がりやイタリアのムッソリーニ率いるファシスト政権の成果を目の当たりにして、帰国後に自らの党を「イギリス・ファシスト同盟」に改称。ファシストとしての立場を鮮明とする。
労働党の内紛や世界大恐慌による社会不安からオズワルドのファシスト同盟は人気を得、1934年には党員数がピークに達した。しかしこの頃から反ユダヤ主義を主張し始めると人気に陰りが出てきてしまい、国政進出は終に果たせなかった。
ドイツのナチス党の指導者のヒトラーは、思想を同じくするオズワルドの台頭を期待していたといわれている。1936年に2人目の妻、ダイアナ・ミットフォード(Diana Mitford)と結婚した際、結婚式はベルリンで挙行されヒトラーとゲッベルスが出席した。そのため、第二次世界大戦中はイギリス情報局保安部(MI5)の監視対象となっていた。
没落[編集]
1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、オズワルドは党員と支持者にイギリス政府と軍への支持と協力を呼びかけるが、1940年にモズレーは逮捕、拘禁され、ファシスト同盟も解散させられた。
戦後、釈放されると1951年にアイルランドへと出国するが、1959年に帰国して総選挙に出馬。その後も何度か国政復帰を試みるものの、かつての人気を取り戻すことはできず政界復帰は成らなかった。なおこの前後に、国王を退位したエドワード8世と親交を持った。1968年に自叙伝『我が生涯』を執筆後にパーキンソン病に罹り、フランス・パリ郊外のオルセーで生涯を閉じた。
カリカチュア[編集]
P・G・ウッドハウスの小説「ジーヴス」シリーズには、彼をモデルにしたと思われる「ロデリック・スポード」という人物が登場する。彼は「黒シャツ隊」ならぬ「黒ショーツ隊」なるファシスト集団を率いており、これはあからさまに当時のムッソリーニやオズワルドらを皮肉ったものである。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- oswaldmosley.com - 支持者によるサイト
- Portraits at the National Portrait Gallery
- Beating Back Mosley - an account from 1958 on libcom.org
- Oswald Mosley – Briton, Fascist, European(This website includes sound recordings of Mosley addressing BUF rallies in the 1930s, and BUF members singing the Horst-Wessel-Lied in English.)
- BBC report on MI5 surveillance of Mosley
- Academic essay examining the failure of Mosley and the BUF