エーレンフリート・ベーゲ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エーレンフリート・オスカル・ベーゲ
Ehrenfried Oskar Boege
生誕 1889年11月11日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
オストロヴォ
死没 (1965-12-31) 1965年12月31日(76歳没)
西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国
ヒルデスハイム
所属組織 ドイツ帝国陸軍(プロイセン陸軍)
ヴァイマル共和国陸軍
ドイツ国防軍陸軍
軍歴 1913年 - 1919年(帝国軍)
1921年 - 1935年(共和国軍)
1935年 - 1945年(国防軍)
最終階級 大将
テンプレートを表示

エーレンフリート・オスカル・ベーゲ(Ehrenfried Oskar Boege, 1889年11月11日 - 1965年12月31日)は、ドイツ軍人。最終階級は歩兵大将 (General der Infanterie)。第二次世界大戦中第18軍司令官などを歴任した。

経歴[編集]

第一次世界大戦[編集]

プロイセン王国ポーゼン州オストロヴォ(現ポーランドオストルフ・ヴィエルコポルスキ)に生まれ、1903年3月にポーゼンのマリエン・ギムナジウムにてアビトゥーア試験に合格した後、ミュンヘン大学及びグライフスヴァルト大学にて法学 (Rechtswissenschaft) 及び財務経理 (Kameralistik) を学んだ。グライフスヴァルト大学時代は学生結社「グライフスヴァルダー・ブルシェンシャフト・ルギア」(Greifswalder Burschenschaft Rugia) のメンバーだった。1911年夏からはケーニヒスベルク大学に移ったが、1912年末までに軍人になる決意を固めた。

1913年9月12日、コーセルにて第3上シレジア第62歩兵連隊 (3. Oberschlesisches Infanterie-Regiment Nr. 62) に入隊した。1914年5月、エンゲルス/ラインラントの軍事学校に入学。第一次世界大戦が勃発すると中尉に昇進し、同連隊において小隊長 (Zugführer) に任命された。1916年1月25日、第132機関銃突撃隊 (MG-Sturmtrupps 132) の指揮官に任命された。その後、第38予備歩兵旅団 (38. Reserve-Infanterie-Brigade) の副官 (Adjutant) として終戦を迎えた。

ヴァイマル共和国[編集]

1919年から1920年にかけては上シレジア国境警備隊 (Oberschlesischen Grenzschutz) に所属し、オーベルグローガウ及びブリークにて勤務した。1921年1月1日、ヴァイマル共和国軍に復帰。当初メルンの第6歩兵連隊に送られ、まもなく指揮官補研修 (Führergehilfenausbildung) を受けた後、第2師団付参謀に任命された。1922年10月1日、シュフィドニツの第7(プロイセン)歩兵連隊 (7. (Preußisches) Infanterie-Regiment) 第3中隊長に、1929年3月12日には同連隊の第12中隊長となった。1932年10月1日からはドレスデン歩兵学校 (Infanterieschule Dresden) の教官を務め、1936年10月6日にはグリヴィツェの第84歩兵連隊第3大隊長に任命された。1938年11月3日、ポツダム軍事大学 (Kriegsschule Potsdam) にてA教導隊 (Lehrgruppe A) の指揮官となった。

ナチス・ドイツと戦後[編集]

1938年8月26日、アドルフ・ヒトラーの軍事参謀に任命され、第二次世界大戦の勃発後も総統大本営副司令官としてヒトラーの近くに残された。ポーランド戦役後の1939年12月1日、ノイハマーに駐屯していた第161歩兵連隊の指揮を引き継ぎ、シレジアのゴルトベルクやオイペン、サン・クエンチンやブールジュなどを転戦した。

1940年7月13日に第7歩兵連隊長となり、1941年6月には東部戦線メーメル川付近で発生したスモレンスク包囲戦に参加。その後もヴャジマ及びブリャンスクの戦いモスクワの戦いなどの激戦に参加した。1941年12月1日から1942年2月10日にかけて、第252歩兵師団長や第197歩兵師団長などを歴任。1943年11月5日、待命指揮官 (Führerreserve) に編入され、デーベリッツにて指揮将官研修 (Lehrgang für Kommandierende Generale) を受けた。

1944年2月1日、第41装甲軍団の軍団長に任命され、1944年3月25日からナルヴァエルゲリドヴィンスクを転戦した。1944年9月5日、第18軍司令官に任命され、その後はクールラントにおける5つの戦いに参加した。1945年5月5日、ソ連赤軍の捕虜となり、強制労働25年間の判決を受けた。ヴォイコヴォヴォログダヴォルクタアスベスト市などの収容所に収監された。

1955年10月の特赦によって帰国を果たし、その後はボンフュッセンヒルデスハイムに暮らした。ヒルデスハイムにて没した。

家族[編集]

1921年9月20日にルート=ドロレス・プルドロと結婚しており、1人の娘と3人の息子がいた。息子の1人は後に連邦陸軍の准将となり、第18装甲旅団長などを歴任した。

階級[編集]

  • 1913年9月13日、候補生 (Fahnenjunker)
  • 1914年3月7日、候補生たる軍曹 (Fahnenjunker-Unteroffizier)
  • 1914年5月20日、士官候補生 (Fähnrich)
  • 1914年8月6日、少尉 (Leutnant)
  • 1918年4月18日、中尉 (Oberleutnant)
  • 1926年10月1日、大尉 (Hauptmann)
  • 1934年8月1日、少佐 (Major)
  • 1937年3月28日、中佐 (Oberstleutnant)
  • 1940年2月1日、大佐 (Oberst)
  • 1942年4月1日、少将 (Generalmajor)
  • 1943年1月21日、中将 (Generalleutnant)
  • 1944年3月25日、歩兵大将 (General der Infanterie)

受章[編集]

参考文献[編集]

  • Dermot Bradley, Karl-Friedrich Hildebrand, Markus Rövekamp: Die Generale des Heeres 1921-1945, Band 2 v. Blanckensee-v. Czettritz und Neuhauß; Biblio Verlag, Osnabrück 1993, ISBN 3-7648-2424-7

脚注[編集]

  1. ^ a b Veit Scherzer: Die Ritterkreuzträger 1939-1945, Scherzers Militaer-Verlag, Ranis/Jena 2007, ISBN 978-3-938845-17-2, S.229

外部リンク[編集]