スモレンスクの戦い (1941年)

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スモレンスクの戦い (1941年)
Eastern Front 1941-06 to 1941-09.png
スモレンスクの戦い (1941年)時の戦線
戦争第二次世界大戦独ソ戦
年月日:1941年7月6日- 1941年8月5日
場所ソビエト連邦 スモレンスク
結果:ドイツ軍の勝利
交戦勢力
Flag of German Reich (1935–1945).svg ドイツ Flag of the Soviet Union.svg ソ連
指揮官
Flag of German Reich (1935–1945).svgハインツ・グデーリアン
Flag of German Reich (1935–1945).svgヘルマン・ホト
ソビエト連邦の旗セミョーン・チモシェンコ
ソビエト連邦の旗ゲオルギー・ジューコフ
ソビエト連邦の旗フョードル・クズネツォフ
ソビエト連邦の旗アンドレイ・エレメンコ
戦力
将兵1,200,000名
戦車1,200両
将兵581,600名[1]
戦車700 両
損害
不明 捕虜300,000名
戦死・負傷45,000 名[1]
戦車全車両
独ソ戦

スモレンスクの戦い (1941年)とはドイツ中央軍集団所属の第2装甲軍(司令官ハインツ・グデーリアン)、第3装甲軍ヘルマン・ホト)らがソビエト赤軍4個方面軍を包囲した戦いのことである。

ソビエト赤軍は西部方面軍(司令官セミョーン・チモシェンコ)、ソビエト赤軍予備軍(司令官ゲオルギー・ジューコフ)、中央方面軍(司令官フョードル・クズネツォフ)、ブリャンスク方面軍アンドレイ・エレメンコ)が戦いに参加、最終的にはソビエト第16軍、第19軍、第20軍がスモレンスク南方で包囲され、第19軍の大部分のみ包囲から脱出することができた。包囲から逃れた大勢のソビエト赤軍将兵がいたことから、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーソビエト連邦を撃破する第一手段である包囲作戦を中止、ソ連に経済損失を負わせることへ集中するよう命令した。

背景[編集]

7月3日、(この日はヨシフ・スターリンがこの戦いをナチスの侵入への反撃、大祖国戦争と呼んだ日でもある。)ドイツ軍の歩兵部隊が装甲部隊へ合流、東への進撃を再開した。主な装甲部隊は1週間停止しており、攻撃が再開された7月上旬は突然の暴風雨のために道が泥濘化しており、軍を進めることには困難が伴う状況で、数時間停止することもあった。その間に赤軍は防衛を固め、多くの橋が爆破された。また、赤軍はドイツ軍の進撃を鈍らせるため多くの地雷を敷設、そのため、ドイツ軍は極めて限られた道を進撃路とせざるを得なかった。

この遅延はソビエト赤軍装甲部隊による大規模な反撃を組織化する時間を与えることとなった。

作戦[編集]

ドイツ中央軍集団の最終目的はモスクワへの道を制することとなるスモレンスクの制圧であったが、ドイツ軍が向かうドニエプル川ダウガヴァ川付近はソビエト赤軍の防衛線、スターリン線の防衛範囲内であった。これを防衛するソビエト赤軍は西部方面軍所属の第13軍、ソビエト赤軍最高司令部予備戦力の第20軍、第21軍、第22軍であった。第16軍がスモレンスクに向かう間、第19軍はヴィチェプスクで防衛線を構築していた。ソビエト赤軍最大の懸念はドイツ第3装甲軍所属の第39装甲軍団による北方からの脅威であった。7月6日、ソビエト赤軍第20軍所属の第7、第5機械化軍団は戦車700両で攻撃を開始した。ドイツ軍はドイツ空軍による航空支援を受け、3日間の戦いで2個ソビエト赤軍機械化軍団は事実上、壊滅した。

赤軍におけるスモレンスクの戦いはドイツ軍の攻撃と挟撃作戦を阻止するためにいくつかの段階に分けられていた。

  • スモレンスクの戦い(1941年7月10日 – 1941年9月10日)
スモレンスク防衛作戦(1941年7月10日 – 1941年8月10日)
スモレンスク攻略作戦(1941年7月21日 - 1941年8月7日)
ホメリ-トルーバル(Trubchevsk)防衛作戦(1941年7月24日 - 1941年8月30日)
ドゥホフシチーナ(Dukhovshchina)攻略作戦(1941年8月17日 – 1941年9月8日)
エリニャ攻略作戦(1941年8月30日 – 1941年9月8日)
ロスラブリ(Roslavl)-ノボズイブコフ(Novozybkov)攻略作戦(1941年8月30日 – 1941年9月12日)

一方、ドイツ第3装甲軍所属の第20装甲師団はドヴィナ川東岸に橋頭堡を構築、ヴィチェプスクを脅かしていた。南では主力から離れて行動していた第2装甲軍がドニエプル川のソビエト赤軍部隊に対して奇襲を開始した。ソビエト赤軍第13軍は押し戻され、5個師団を喪失した。ドイツ軍2個装甲軍が東進したため、ソビエト3個軍(第20軍、第19軍、第16軍)はスモレンスク周辺で包囲される危険に直面していた。

スモレンスクの南部ではグデーリアン率いる第2装甲軍が迅速に進撃、第29自動車化歩兵師団は7月16日、スモレンスクを占領した。北部ではホト率いる第3装甲軍がゆっくり進撃していたが、これは湿地が多く、さらに雨が支障を起こしていた。そしてソビエト赤軍将兵は包囲されつつある状況から逃れるために必死の戦いを見せていた。7月18日、ドイツ2個装甲軍による巨大な挟撃作戦は、包囲終了まで残り10マイルを残すのみとなったが、その後8日間閉じられることはなく、さらに包囲内のソビエト赤軍部隊を殲滅するのにさらに10日間を要することとなった。

結局、ソビエト赤軍将兵300,000名がドイツ軍の捕虜となったが、200,000名以上が脱出に成功していた。

その後[編集]

ドイツ軍が素早く包囲を閉じることができなかったため、ソビエト赤軍将兵200,000名が脱出、そのため、ヒトラーは包囲殲滅作戦をあきらめることとなった。さらに4週間に及ぶ作戦により、ソ連は莫大な資源、将兵の損失にもかかわらず分解する気配はなく、そしてドイツ中央軍集団の側面はソビエト赤軍の反撃により弱体化したことはヒトラーと最高司令部にとって明らかであった。ヒトラーはソ連に莫大な経済損失を負わせることにより撃破するために、中央軍集団の装甲部隊を北方軍集団南方軍集団へそれぞれ送ることを決定した。これは北でレニングラードの速やかな包囲を行うこと、南の穀倉地帯、油田地帯を占領することを意味した。スモレンスクの町全体はこの戦いによりほぼ破壊された。

1985年、スモレンスクは英雄都市の称号を与えられた。

脚注[編集]

外部リンク[編集]