アフメトジャン・カスィミ

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Ehmetjan Qasimi.jpg

アフメトジャン・カスィミウイグル語: ئەخمەتجان قاسىمى (Ehmetjan Qasimi)中国語: 阿合买提江 哈斯木拼音: Āhémǎitíjiāng Hāsīmù1914年 - 1949年)は、ウイグル人の革命運動家。東トルキスタン共和国の政治指導者。

略歴[編集]

1914年新疆省グルジャ市(現在のイリ・カザフ自治州伊寧市)で生まれる。ソ連領のカザフスタンで初等教育を終えた後、1936年モスクワ東方勤労者共産主義大学(КУТВ)を卒業。その後新疆に戻ったが、1943年に新疆省政府に革命運動の嫌疑で逮捕された。

アフメトジャンは1944年10月に釈放されると、同年のグルジャ蜂起に加わり、東トルキスタン共和国政権に参加した。同政権では、1945年2月ごろから、東トルキスタン共和国主席のアリー・ハーン・トラ英語版の秘書官を務め、才能を認められて、1945年4月から共和国軍事庁長に任命された。

1947年に、共和国内のアブドゥルキリム・アバソフら親ソ派勢力は、中国政府との和解を目指すソ連の意向を受け、アリー・ハーン・トラら主戦派を抑えて、新疆省政府との和平交渉に踏み切った。交渉の結果、東トルキスタン共和国と、新疆省政府の合同による新疆省連合政府の発足が合意され、ソ連はアリー・ハーン・トラを自国領に拉致して主戦派勢力を一掃した。中国国民党張治中との交渉の実質的責任者を務めたアフメトジャンは、政治的に台頭し、新政権では張治中を省政府主席に、アフメトジャンを副主席にする人事が行われた[1]

しかし、1948年に張治中が省政府主席を辞任し、後任に国民党右派のウイグル人、マスード・サブリが就任すると、新疆省連合政権は崩壊し、アフメトジャンら旧共和国派は、イリに戻り、三区経済委員会を称して旧共和国の領域を再び支配し始めた。

1949年国共内戦が終結すると、アフメトジャンらイリ政権は、中国共産党政権への合流を表明し、毛沢東の招請に応じて、北京政治協商会議に向かった。しかし、アフメトジャンのほか、アブドゥルキリム・アバソフデレリカン・スグルバヨフイスハクベグ・モノノフらイリ政権の主要幹部の乗った搭乗機は、8月27日、ソ連領空で消息を絶ち行方不明となり、首脳を失ったイリ政権は混乱に陥った。残されたイリ政権幹部のセイプディン・エズィズィが、急遽政治協商会議に赴き、中華人民共和国への合流を表明した。

中華人民共和国では、東トルキスタン共和国政権は、反国民政府運動の一部である「三区革命」として位置付けられており、アフメトジャンも、「革命烈士」として評価されている。1950年にソ連から返還されたアフメトジャンらの遺体は、現在でも、グルジャ市内の「伊犁三区革命烈士陵園」に埋葬されている[2]

脚注[編集]

  1. ^ 王, pp.213-215.
  2. ^ 三区革命烈士陵园 (伊宁市人民政府)

参考文献[編集]

  • 王柯『東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題』 東京大学出版会 1995年 (ISBN 978-4130261135