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「東魏」の版間の差分

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== 史跡 ==
* 茹茹公主墓(東魏550年葬) - [[河北省]][[邯鄲市]][[磁県]]に残る墳墓。[[1978年]]から[[1979年]]にかけて発掘され、21mにおよぶ彩色[[壁画]]<ref>長さ21メートルもの北朝彩色壁画見つかる 東ローマ帝国の金貨も『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月18日 13版 22面</ref>や[[東ローマ帝国]]時代の[[金貨]]を含む[[副葬品]]が発見されている<ref>{{Cite web |auther=谷一尚|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/40/2/40_2_124/_pdf |title=中国出土のビザンツ金貨 |publisher= 日本オリエント学会 第38回資料大会 |date=1996年10月27日 |accessdate=2021-10-17}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年10月17日 (日) 04:45時点における版

東魏
北魏 534年 - 550年 北斉
東魏の位置
540年頃
公用語 漢語(中国語
首都
皇帝
534年 - 550年 孝静帝
変遷
北魏より分立 534年
北斉に禅譲550年
中国歴史
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

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東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、中国南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した二つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の方は、西魏と呼んで区別する。

「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみなである。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。

概要

534年、大丞相高歓を排除しようと謀って失敗した北魏の孝武帝は、洛陽から逃れて関中に入り、宇文泰に保護された。高歓はやむなくで元善見(孝静帝)を皇帝に擁立した。これが東魏と呼ばれる。一方、宇文泰は孝武帝と相性が悪く、孝武帝を毒殺して元宝炬(文帝)を皇帝に擁立した。こちらは西魏と呼ばれる。

東魏では高歓が専権を振るい、孝静帝は高氏一族の傀儡でしかなかった。国力は当初は西魏に対して優っていたにもかかわらず、しばしば軍事的敗北を喫した。547年に高歓が死ぬと、その長男の高澄が大丞相を継いだ。間もなく侯景南朝梁に降って東魏に叛くと、慕容紹宗に侯景を討たせ、高澄は鄴に残った侯景の妻子を殺害、また南朝梁と修好して、侯景を孤立に追い込んだ。549年、高澄は相国に上り、斉王に封じられた。しかし高澄は暴虐が酷さを増すばかりだったので、蘭京に殺された。高歓の次男の高洋が相国・斉王を継ぎ、この高洋が550年に孝静帝から禅譲されて帝位に即き、翌年元旦に国号を斉(北斉)に革める。ここに東魏の16年の短い歴史が終った。

皇帝

  1. 孝静帝(元善見、在位:534年 − 550年[注釈 1]

元号

  1. 天平(534年 − 537年)
  2. 元象(538年 − 539年)
  3. 興和(539年 − 542年)
  4. 武定(543年 − 550年)

史跡

脚注

注釈

  1. ^ 北斉に禅譲
先代
北魏
東魏
534年 - 550年
次代
北斉
  1. ^ 長さ21メートルもの北朝彩色壁画見つかる 東ローマ帝国の金貨も『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月18日 13版 22面
  2. ^ 中国出土のビザンツ金貨”. 日本オリエント学会 第38回資料大会 (1996年10月27日). 2021年10月17日閲覧。