高澄
| 文襄帝 高澄 | |
|---|---|
| 北斉 | |
| 追尊皇帝 | |
| 王朝 | 北斉 |
| 姓・諱 | 高澄 |
| 字 | 子恵 |
| 諡号 | 文襄皇帝 |
| 廟号 | 世宗 |
| 生年 | 521年 |
| 没年 | 549年 |
| 父 | 高歓 |
| 母 | 婁昭君 |
| 陵墓 | 峻成陵 |
高 澄(こう ちょう、521年 - 549年)は、東魏の権臣で、高歓の長男。北斉が建てられると、廟号を世宗、諡号を文襄皇帝と追尊された。
経歴 [編集]
521年、高歓と婁昭君の間の長男として生まれた。531年、渤海王世子に立てられた。532年、侍中・開府儀同三司の位を加えられ、元善見(のちの孝静帝)の妹の馮翊長公主(文襄敬皇后)を妻とした。
534年、東魏が建てられると、使持節・尚書令・大行台・并州刺史となった。536年、鄴に入って朝政に参与し、領左右・京畿大都督を加えられた。538年、吏部尚書を兼ねた。540年、大将軍の位を加えられ、中書監・吏部尚書を兼ねた。吏部郎の崔暹を御史中尉に抜擢して、権門を弾劾させた。
546年11月、高歓が西魏を討ち、病のため軍を返すと、高澄は高歓の本陣を守って晋陽に帰還した。547年1月、高歓が死去すると、事実を隠して喪を発さなかった。司徒の侯景が河南で叛くと、高澄は司空の韓軌らに侯景を討たせた。4月、高澄は鄴に帰還した。6月、韓軌らは潁州から軍を返した。高澄は晋陽に戻り、喪を発して、高歓の遺志を継ぐことを発表した。7月、使持節・大丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台・渤海王となった。
あるとき孝静帝と高澄が鄴の東で狩猟すると、孝静帝は獲物を追いかけて馬を走らせたが、監衛都督の烏那羅受工伐が後ろから孝静帝を呼び止めて、「天子は馬を走らせてはいけません、大将軍(高澄)が怒っておられます」といった。またあるとき孝静帝と高澄が宴会すると、高澄は「臣澄が陛下に酒をお勧めいたします」と言って杯を掲げた。このとき孝静帝は不機嫌で、「昔から滅亡しなかった国はないというのに、朕はどうしてこのように生まれてきたのだ」とぼやくと、高澄は怒って「朕、朕、狗脚の朕」と罵倒し、崔季舒に孝静帝を殴打させた。後に崔季舒を派遣して謝罪させた。孝静帝は崔季舒にあやぎぬを賜ろうとしたが、崔季舒は受けとらず、高澄に報告すると、1段だけ取らせた。孝静帝は400疋をあたえようとしたが、高澄は「また1段だけだ」といったので、孝静帝は屈辱のため謝霊運の詩を詠んで涙した。孝静帝は近臣と語らって高澄を誅殺しようと企てたが、未然に防がれ、孝静帝は含章堂に幽閉され、共謀者たちはことごとく処刑された。
548年3月、高澄は洛陽を経由して晋陽に帰った。549年4月、相国・斉王に上った。8月、晋陽で梁の降臣の蘭京に殺害された。