高澄

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高 澄(こう ちょう、正光2年(521年) - 武定7年(549年)4月)は、東魏の権臣。は子恵。

生涯[編集]

正光2年(521年)、高歓婁昭君の間の長男として生まれた。531年に渤海王世子に立てられた。532年侍中・開府儀同三司の位を加えられ、元善見(後の孝静帝)の妹の馮翊長公主を妻とした。

天平元年(534年)に東魏が建てられると、使持節・尚書令・大行台・并州刺史となった。天平3年(536年)、に入って朝政に参与し、領左右・京畿大都督を加えられた。元象元年(538年)、吏部尚書を兼ねた。興和2年(540年)には大将軍の位を加えられ、中書監・吏部尚書を兼ねた。吏部郎の崔暹を御史中尉に抜擢して、権門を弾劾させた。

武定4年(546年)11月、高歓が西魏を討ち、病のため軍を返すと、高澄は高歓の本陣を守って晋陽に帰還した。武定5年(547年)1月に高歓が死去すると、事実を隠して喪を発さなかった。司徒侯景河南で叛くと、高澄は司空韓軌らに侯景を討たせた。4月、鄴に帰還した。6月、韓軌らは潁州から軍を返した。晋陽に戻った高澄は喪を発して、高歓の遺志を継ぐことを発表した。7月、使持節・大丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台・渤海王となった。

あるとき孝静帝と高澄が鄴の東で狩猟すると、孝静帝は獲物を追いかけて馬を走らせたが、監衛都督の烏那羅受工伐が後ろから孝静帝を呼び止めて、「天子は馬を走らせてはいけません、大将軍(高澄)が怒っておられます」といった。またあるとき孝静帝と高澄が宴会すると、高澄は「臣澄が陛下に酒をお勧めいたします」と言って杯を掲げた。このとき孝静帝は不機嫌で、「昔から滅亡しなかった国はないというのに、朕はどうしてこのように生まれてきたのだ」とぼやくと、高澄は怒って「朕、朕、狗脚の朕」と罵倒し、崔季舒に孝静帝を殴打させた。後に崔季舒を派遣して謝罪させた。孝静帝は崔季舒にあやぎぬを賜ろうとしたが、崔季舒は受けとらず、高澄に報告すると、1段だけ取らせた。孝静帝は400疋をあたえようとしたが、高澄は「また1段だけだ」と言ったので、孝静帝は屈辱のため謝霊運の詩を詠んで涙した。孝静帝は近臣と語らって高澄を誅殺しようと企てたが、高澄はこれを未然に防ぎ、孝静帝を含章堂に幽閉して、共謀者たちをことごとく処刑した。

武定6年(548年)3月、洛陽を経由して晋陽に帰った。武定7年(549年)4月、相国・斉王に上った。8月、晋陽での降臣の蘭京に殺害された。次弟の高洋北斉が建てると、廟号世宗諡号文襄皇帝と追尊された。

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伝記史料[編集]