麻生太吉
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麻生太吉 あそう たきち | |
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生年月日 | 1857年8月26日 |
出生地 |
日本 筑前国嘉麻郡栢森村 (現福岡県飯塚市) |
没年月日 | 1933年12月8日(76歳没) |
称号 | 勲三等瑞宝章 |
配偶者 | 麻生ヤス |
子女 | 三男・麻生太郎 |
親族 |
孫・麻生太賀吉(衆議院議員)[1] 曾孫・麻生太郎(内閣総理大臣) |
在任期間 | 1911年9月29日 - 1925年9月28日[2] |
選挙区 | 福岡県第3選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1899年7月3日 - 1902年8月9日 |
立岩村外四ヶ村村会議員 |
麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7月7日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は、日本の炭鉱業者、実業家、政治家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曾祖父。
麻生商店社長、石炭鉱業連合会会長、九州水力電気社長、衆議院議員、貴族院多額納税者議員などを歴任した。
年譜
[編集]- 1857年 - 7月、筑前国嘉麻郡栢森村(現在の福岡県飯塚市柏の森)に村の庄屋(今でいう村長)を務めていた父・賀郎、母・マツの子として生まれる。幼名は鶴次郎。
- 1868年 - 1月、村に対する貸渡金595両余を免除したことにより倅代まで“大庄屋格”を申し付けられ、麻生の苗字名乗りを許される。
- 1869年 - 上野彦三郎の私塾に入り修学。
- 1871年 - 6月、檀那寺川島正恩寺住職井上誓存について修学。
- 1872年 - 太吉と改名。目尾御用山を共同で採掘し、初めて炭山開発事業に着手(麻生炭坑の興り)。11月、立岩村副戸長。
- 1873年 - 2月、福岡県鞍手の吉川半次郎六女・ヤスと結婚。10月、忠隅山王谷採炭。11月、有井山採炭。
- 1874年 - 11月、長女・マツ誕生。
- 1876年 - 2月、次女・タケ誕生。
- 1877年 - 9月、有井開ヶ谷坑採炭。
- 1878年 - 9月、母・マツ死去(44歳)。12月、川島村立岩村戸長(~1881年11月)。
- 1879年 - 1月、有井泉ヶ谷坑採炭。
- 1880年 - 4月、鯰田浦田坑及寺ヶ坂坑、綱分煽石坑採炭。10月、平恒煽石山採炭。
- 1881年 - 2月、泉鳥羽坑採炭、網分傍子ヶ浦煽石坑を採炭。11月、立岩村戸長(~1882年10月)。
- 1882年 - 3月、鯰田大師坑採炭。7月、長男・太右衛門誕生。
- 1883年 - 4月、立岩村川島村戸長(~1884年4月)
- 1884年 - 1月、有井下鳥羽坑採炭。2月、鯰田炭鉱開坑。
- 1885年 - 10月、忠隅炭坑採炭。12月、次男・鶴十郎誕生。
- 1887年 - 1月、立岩村外四ヶ村村会議員当選。5月、父・賀郎死去(68歳)。9月、三男・太郎誕生。
- 1888年 - 1月、三緒社及び徳明社を組織。2月、嘉麻煽石社を組織。9月、嘉麻炭坑を株式会社化。
- 1889年 - 4月、鯰田炭坑を三菱に譲渡。5月、嘉麻煽石社社長就任。
- 1890年 - 6月、笠松炭坑(通称:獅子場炭坑)開坑。
- 1891年 - 4月、筑豊興業鉄道株式会社常議員就任。7月、笠松炭坑廃坑。忠隅炭坑浸水事故。三女・ヨネ誕生。
- 1893年 - 6月、4男太七郎誕生、11月、筑豊石炭鉱業組合常議員就任。
- 1894年 - 4月、忠隈炭坑を住友家に譲渡。9月、上三緒炭坑開坑。
- 1896年 - 3月、株式会社嘉穂銀行頭取就任。4月、若松築港株式会社監査役就任、12月、合資会社幸袋工作所取締役就任。
- 1897年 - 4月、九州鉄道株式会社取締役就任。
- 1898年 - 8月、第6回衆議院議員総選挙福岡県選挙区より出馬、当選。
- 1901年 - 5月、豆田炭坑開坑。
- 1902年 - 1月、藤棚炭坑を譲り受ける。5月、四女・ふよ誕生。
- 1903年 - 4月、笹原炭坑経営に参画。
- 1905年 - 1月、九州コークス株式会社取締役。
- 1906年 - 4月、綱分炭坑開坑。7月、南満州鉄道株式会社設立委員。
- 1907年 - 7月、藤棚本洞両炭坑を三井鉱山に譲渡。
- 1908年 - 10月、嘉穂電燈株式会社取締役社長。11月、久原炭坑買収。
- 1909年 - 5月、吉隅下臼井炭坑開坑。11月、西本願寺より本山勘定方を依嘱。
- 1910年 - 3月、山内農園を開始。
- 1911年 - 3月、筑豊石炭鉱業組合総長就任。9月29日、貴族院多額納税者議員[3]。9月、孫・太賀吉誕生。
- 1913年 - 7月、九州水力電気株式会社取締役。
- 1916年 - 6月、大分紡績株式会社取締役。
- 1917年 - 11月、東洋製鉄株式会社取締役
- 1918年 - 5月、麻生商店を株式会社化し、社長に就任。6月、貴族院議員2期目。
- 1919年 - 3月、三男・太郎死去(31歳)。
- 1921年 - 7月、渋沢栄一、中野正剛らと共に国士舘維持委員。10月、石炭鉱業連合会長就任。
- 1924年 - 6月、杖立川水力電気株式会社社長。9月、妻・ヤス死去(68歳)。
- 1927年 - 3月、朝鮮総督府より安眠島の払い下げを受け、5月、安眠島林業所を開設。
- 1928年 - 11月、筑後電気株式会社社長就任。
- 1929年 - 12月、九州産業株式会社社長就任。
- 1930年 - 3月、日本産業協会評議員。4月、延岡電気株式会社社長。8月、九州保全株式会社社長。10月、九州電気軌道株式会社取締役。12月、昭和電燈株式会社社長。
- 1931年 - 1月、九州電気工業株式会社社長。3月、全国産業団体連合会委員及西部産業団体連合会委員長。6月、小国水力電気株式会社社長。
- 1933年 - 3月、福岡県国防会参与。7月、嘉麻興業株式会社設立。11月、九州産業鉄道、九州産業合併。セメント製造業に参入し、産業セメント鉄道株式会社設立。12月、死去(76歳)。従五位に叙せられる。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]- 祖父-太右衛門(庄屋)
- 父 - 賀郎(1820 - 1887、庄屋)
- 母 - マツ(1825 - 1878、福岡県、永富家出身)
- 妻 - ヤス(1857 - 1924、福岡県、吉川(きっかわ)半次郎六女)
系譜
[編集]- 簡略
┏太吉━┳━太右衛門 ┃ ┣━鶴十郎 ┃ ┣━太郎━┳太賀吉━━太郎 ┃ ┃ ┗典太━━誠 ┃ ┣━太七郎━━三郎 ┃ ┣━ヨネ ┃ ┃ ┣━━┳義太賀 太右衛門━賀郎━┫ ┃麻生義之助┗太介 ┃ ┗━ふよ ┃ ┣━━┳忠二 ┃ 麻生五郎┗欣次郎 ┃ ┃ ┗太七━━花 ┣━┳太喜蔵 麻生太三郎┣吉郎 ┣純三 ┗静四郎
- 詳細
太右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
賀郎 | 吉川 半次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太吉 | ヤス | 吉川 洗 | 太七 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マツ | 吉川 監十郎 | タケ | 吉田 九右衛門 | 太右衛門 | ミサオ | 鶴十郎 | 花 | 麻生 太三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨネ | 麻生 義之助 | 太郎 | 夏子 | 太七郎 | きみ | ふよ | 麻生 五郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義太賀 | 太介 | 太賀吉 | 典太 | 三郎 | 忠二 | 欣次郎 | 太喜蔵 | 吉郎 | 純三 | 静四郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太郎 | ちか子 | 次郎 | 泰 | 雪子 | 旦子 | 信子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
巌 | 健 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
[編集]外部リンク
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