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鈴木文助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木 文助すずき ぶんすけ
生誕 荒木 文助
(あらき ぶんすけ)
1888年1月10日
日本の旗 福島県
死没 (1949-11-08) 1949年11月8日(61歳没)
研究分野 生物学
研究機関 京都帝国大学
東京帝国大学
出身校 東京帝国大学農科大学卒業
博士課程
指導教員
農学博士東京帝国大学・1925年)
他の指導教員 鈴木梅太郎
博士課程
指導学生
芦田淳
他の指導学生 江本榮
主な業績 グリセリド分離および
その性質に関する研究
燐類脂体に関する研究
不飽和脂肪酸および
その誘導体についての研究
主な受賞歴 帝国学士院賞恩賜賞1933年
プロジェクト:人物伝
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鈴木 文助(すずき ぶんすけ、1888年明治21年〉1月10日[1] - 1949年昭和24年〉11月8日)は、日本生物学者生化学農芸化学)。旧姓は「荒木」(あらき)。京都帝国大学農学部教授農学部教授。

来歴

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生い立ち

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1888年(明治21年)1月、福島県に生まれた。上京して東京帝国大学農科大学に進学し[2]農芸化学科にて学んだ[3]。このとき鈴木梅太郎に師事し、のちに梅太郎の娘婿となった。1912年(明治45年)、東京帝国大学の農科大学を卒業。なお、後年に博士論文「『ビオス』ニ関スル研究」[4]を執筆し、1925年大正14年)に東京帝国大学より農学博士の学位が授与された[4]

研究者として

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大学卒業後は生物学者として研鑽を重ね、1923年(大正12年)に京都帝国大学教授に就任。京都帝国大学では、農学部学部長に就任するなど、要職をつとめた。1934年12月、母校である東京帝国大学に転じ、教授に就任した。東京帝国大学では、岳父である鈴木梅太郎が主宰した化学第二講座を引き継ぎ[5]、のちに名古屋大学学長などを歴任する芦田淳[6]、のちに豊田工業大学工学部教授などを歴任する江本榮らを育てた[7]。なお、それと並行して理化学研究所研究員を兼任していた。しかし、病を得て東京帝国大学を退職。それに伴い、化学第二講座は同じく鈴木梅太郎の門下である後藤格次が引き継ぐことになった[5]太平洋戦争の戦火の中を生き延びたが、1949年(昭和24年)11月に死去した。

賞歴

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研究内容・業績

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門下生

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長年に渡って京都帝国大学並びに東京帝国大学で教鞭を執り、後進の育成にも力を注いだ。

家族・親族

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  • 岳父:鈴木梅太郎。生物学者である鈴木梅太郎の婿養子となったことから[5]を荒木から鈴木に改めた。梅太郎の門下生であり、梅太郎が主宰した講座を引き継いだということもあり、梅太郎の業績について解説する機会も多かった[11]

著作

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単著

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  • 鈴木文助著『グリセリドの分離に就て』日本学術協会、1929年

共著

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寄稿、分担執筆、等

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  • 鈴木梅太郎編『農芸化学全書』朝倉書店1940年
  • 全国農業学校長協会編『日本農学発達史』農業図書刊行会、1943年
  • 静岡県科学協会編『黎明期に於ける郷土の科学者』静岡県科学協会、1944年

脚注

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  1. ^ 『帝国大学大観』帝国大学学友会、1939年、p.326。
  2. ^ 東京帝国大学農科大学は、のちの東京大学農学部の源流となった。
  3. ^ 東京帝国大学農科大学農芸化学科は、のちの東京大学農学部応用生命科学課程生命化学・工学専修の源流となった。
  4. ^ a b 「書誌事項」『CiNii 博士論文 - 「ビオス」ニ関スル研究国立情報学研究所
  5. ^ a b c 「HISTORY――研究室沿革」『生物化学研究室 沿革東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻生物化学研究室
  6. ^ a b 芦田淳「栄養化学と私」『日本農芸化学会誌』61巻、日本農芸化学会1987年、34頁。
  7. ^ a b 有山恒・川上行藏・江本榮出席者、丸尾文治司会「鈴木梅太郎先生を語る」『農芸化学の100年』日本農芸化学会1987年、46頁。
  8. ^ a b c 「第23回」『恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 | 日本学士院日本学士院
  9. ^ 帝国学士院賞恩賜賞は、のちの日本学士院賞恩賜賞の源流となった。
  10. ^ 「第14回」『恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 | 日本学士院日本学士院
  11. ^ 鈴木文助「鈴木梅太郞博士とヴイターミン」静岡県科学協会編『黎明期に於ける郷土の科学者』静岡県科学協会、1944年

関連項目

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