コンテンツにスキップ

越智孝平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 越智 孝平
生誕 1889年2月3日
日本の旗 日本愛媛県
死没 1968年6月25日
所属組織 日本海軍
軍歴 1910年 - 1937年
最終階級 海軍少将
除隊後 松山市
テンプレートを表示

越智 孝平(おち こうへい、1889年明治22年)2月3日 - 1968年昭和43年)6月25日[1])は、日本海軍軍人政治家。最終階級は海軍少将松山市長

経歴

[編集]

愛媛県和気郡堀江村(現:松山市堀江町)で越智倉吉、ヨシ夫妻の息子として生れる[1][2]1907年私立北予中学校を卒業し[2]海軍兵学校38期)に入学。1910年7月、同校を卒業し、1911年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで海軍水雷学校高等科学生、同特修科学生として学んだ。第三水雷戦隊司令部付、米国駐在、第一水雷戦隊司令部付兼参謀、「陸奥」通信長心得などを経て、1924年11月、海大甲種22期を卒業した[1][3]

以後、軍令部参謀、第二遣外艦隊参謀、海軍大学校教官、在メキシコ国公使館武官などを歴任。1931年12月、海軍大佐に昇進し、1933年11月「多摩艦長に就任。鎮海要港部参謀長、仮称鎮海海軍航空隊設立準備委員長を経て、1936年12月、「比叡」艦長となる。1937年12月1日、海軍少将に進み軍令部出仕、同月4日に待命となり、同月21日に予備役に編入された[1]

1942年10月、勝田主計川島義之の勧めで松山市長に就任し、戦時下の対応に尽力。1946年3月、市長を退任した。戦後公職追放となり[4]、その後は、飯岡マグネート工業会社監査役、田中精機会社取締役などを務めた[2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 『日本海軍史』第9巻、729頁。
  2. ^ a b c 『愛媛県史 人物』111頁。
  3. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、651頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、456頁。NDLJP:1276156 

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 人物』愛媛県、1989年。
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。