藤岡作太郎
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人物情報 | |
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生誕 |
1870年8月15日 日本石川県金沢市 |
死没 | 1910年2月3日 (39歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
子供 | 藤岡由夫(物理学)・藤岡通夫(建築史) |
学問 | |
研究分野 | 国文学 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(1870年8月15日) - 明治43年(1910年)2月3日)は、日本の国文学者、文学博士。
人物
[編集]加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。号は東圃・李花亭・枇杷園。1890年に第四高等中学校を卒業。ここでの同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)がおり、藤岡とあわせて「加賀の三太郎」と称される。
帝国大学文科大学国文科に進み、在学中に北國新聞創刊号に「小説管見」を発表。卒業後、大阪府第一中学校、京都真宗大谷派第一中学校教員、真宗大谷派大学寮教授、第三高等学校教授ののち、1900年東京帝国大学助教授となり、芳賀矢一の洋行の後の担当となる。1905年文学博士。日本文学史を全体にわたって講義し、『国文学全史』の執筆にかかるが、平安朝篇のみ完成したところで病に倒れ、心臓麻痺の為[1]、39歳で死去。墓所は染井霊園。没後その遺稿が刊行され、『国文学全史平安朝篇』は今も読み継がれる古典である。
家族・親族
[編集]- 長女の綾は、1927年に雪の結晶の研究で知られる物理学者・中谷宇吉郎と結婚したが、翌1928年にジフテリアで死去している。
- 長男:藤岡由夫は原子物理学者。
- 次男:藤岡通夫は、建築史家。
- 孫:藤岡知夫はレーザー工学者。
- 曾孫:藤岡幸夫は指揮者。
栄典
[編集]著書
[編集]- 日本風俗史 (平出鏗二郎共著 東陽堂 1895年)
- 国史綱 (錦光館 1897年)
- 日本文学史教科書 (開成館 1901年)
- 日本史教科書 (開成館 1902年)
- 近世絵画史 (金港堂 1903年)
- 国文学全史 平安朝編 (東京開成館 1905年)、新版・平凡社東洋文庫(全2巻)、講談社学術文庫
- 国文学史講話 (東京開成館 1908年)
- 松雲公小伝 (高木亥三郎 1909年)
- 東圃遺稿 巻1・2 (大倉書店 1911年-1912年)
- 近代小説史 (大倉書店「東圃遺稿巻第4」 1917年)
- 鎌倉室町時代文学史 (国本出版社 1935年)
- 藤岡作太郎著作集 (全4冊 岩波書店 1948年-1955年)
校訂
[編集]- 俳諧水滸伝 (遅月庵空阿 冨山房 1903年)
- 今昔物語選 (冨山房 1903年)
- 異本山家集 (本郷書店 1906年)
- 春雨物語 (上田秋成 冨山房 1907年)
- 英草紙 (近路行者 冨山房 1910年)
伝記
[編集]- 陣野英則『藤岡作太郎 「文明史」の構想』岩波書店「近代「国文学」の肖像」 2021年8月