砂川雄峻
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砂川 雄峻(すながわ かつたか、1860年3月2日(安政7年2月10日[1]) - 1933年(昭和8年)4月15日[1])は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弁護士。
経歴
[編集]姫路藩士砂川貫一郎の二男として生まれる。1882年(明治15年)、東京大学を卒業した。同年の東京専門学校(後の早稲田大学)の創設にあたっては、創立委員として小野梓や高田早苗などと共に大隈重信を支え、最初は講師を務め[2]、後には評議員・維持員を務めた。その後、大阪で弁護士として活動し、大阪弁護士会長も務めた。さらに関西法律学校(後の関西大学)の講師となり、後に監事、主席理事を歴任した。
また1887年(明治20年)より大阪府会議員を務め、議長にも選出された。1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
その他に大阪商業会議所特別会員となった[2]。
おもな著書
[編集]- 『英米契約法』 上 (東洋館書店、1883年)
- 『法曹紙屑籠』 (藤原喜一、1918年)
出典
[編集]参考文献
[編集]- 「故砂川雄峻位記追賜ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114177400
- 関西大学百年史編纂委員会 『関西大学百年史』 人物編、1986年