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留守宗利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達宗利
留守宗利とその殉死者の肖像(大安寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 天正18年(1590年
死没 寛永15年8月15日1638年9月22日
改名 留守太利丸(幼名)、伊達宗則、宗利
別名 小源太、左近太夫、武蔵、宗俊
戒名 天祥寺殿桂岩宗昌大居士
墓所 岩手県奥州市瑞山神社
主君 伊達政宗忠宗
陸奥仙台藩
氏族 水沢伊達氏
父母 留守政景黒川晴氏娘・竹乙
兄弟 宗利天童重頼
狩野一庵
小野勝久娘・多与
宗直、池照院、伊達宗清正室
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日高神社にある留守宗利の銅像

伊達 宗利(だて むねとし)/留守 宗利(るす むねとし)は、江戸時代前期の武士陸奥国仙台藩一門第三席水沢伊達家2代(留守氏19代)当主。

宗利は元服前の文禄元年(1593年)に伊達姓を拝領しているため、実際に留守宗利と名乗った期間はないが、これを記事名としているのは、明治2年(1869年)に水沢伊達家は留守氏へと復姓しており、これに伴い昭和49年(1974年)に日高神社に建立された宗利銅像の銘板では「留守宗利公」と標記していることによる。

生涯

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天正18年(1590年)、宮城郡利府城主・留守政景の長男として誕生。幼名は太利丸

同年の奥州仕置にて、父・政景は小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され、以降は実家の伊達家に戻って甥の伊達政宗に仕えた。政景は文禄元年(1593年)に政宗より伊達姓を拝領して一門の家格に列し、以後留守氏は幕末に至るまで伊達姓を称することになる(水沢伊達家)。

慶長12年(1607年)、父の死去に伴い家督を相続し、磐井郡一関城主となって18,366石を知行する。

慶長16年(1611年)には江戸城西ノ丸の貝塚堀普請役を務める。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では先鋒を務めて初陣を飾り、大坂夏の陣でも鉄砲隊を率いて奮闘したが、宗利が40数名しか兵を出さなかったことが政宗の勘気に触れ、身分相応の軍役を負担しなかったことを理由として、翌年元和2年(1616年)2月、10,000石に減封されて胆沢郡金ケ崎城へと移されたが、寛永6年(1629年)江戸城石垣小路の普請を完成させた功を以て、同年8月15日、水沢城への居城移転が認められ、水沢伊達氏は幕末に至るまで同地を所領とした。このため水沢伊達家の歴代当主を、伊達姓に復帰した政景からではなく、水沢に入封した宗利から数える場合がある。

宗利は政宗の許しを得て水沢城を修築し、留守氏の旧本拠地であった岩切城や、利府城周辺に残してきた同氏ゆかりの寺社を水沢に移転させた。また、水沢城下の整備に努めたほか、寛永2年(1625年)から飛地の名取郡飯田で最上氏旧臣・小野常信(継室・多与の弟)に新田開発をさせるなど、所領の発展に力を尽くした。

寛永15年(1638年)8月15日死去。享年49。家臣8名が殉死。嫡男・宗直が家督を相続した。

昭和49年(1974年)、日高神社境内の瑞山神社(水沢伊達家祖廟)に宗利の銅像が建立された。

系譜

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関連項目

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