留守顕宗
表示
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 永正16年(1519年) |
死没 | 天正14年7月17日(1586年8月31日) |
別名 | 藤五郎 |
戒名 | 光明院殿浄天清公大居士 |
官位 | 従五位下相模守 |
主君 | 伊達晴宗、輝宗 |
氏族 | 留守氏 |
父母 | 留守景宗、留守郡宗娘 |
兄弟 | 顕宗、佐藤景高、大條宗家 |
妻 |
黒川治部大輔娘 村岡常春娘 |
子 |
高城宗綱 政景 |
留守 顕宗(るす あきむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。留守氏17代当主。陸奥国宮城郡岩切城主。官位は従五位下・相模守。
生涯
[編集]永正16年(1519年)、留守氏16代当主・留守景宗の嫡男として誕生。
天文23年(1554年)、父の死去により家督を継いで当主となる。留守氏は天文の乱において伊達晴宗方の主力として戦ったが、顕宗は晴宗と対立し、弘治2年(1556年)に晴宗の支援を受けた留守氏一族・村岡常継の攻撃を受ける。この時は常継の妹を側室に迎えて講和を成立させたが、以後も晴宗からの圧迫は止まず、これに同調した留守氏家臣団の一部[1]の圧力を受け、永禄10年(1567年)には晴宗の三男・政景に家督を譲ることを強いられた。その際に常継の妹との間に生まれた実子・宗綱は神楯城主・高城周防守の養子として送り出され、顕宗は南宮館に隠退した。
系譜
[編集]┏村岡常継 村岡常春━━┫ ┗━女子 ┏留守郡宗━━━━━━━━━女子 ┣━━━━高城宗綱 伊達持宗━┫ ┣━━━━留守顕宗 ┃ ┏留守景宗 ┗伊達成宗━━伊達尚宗━┫ ┗伊達稙宗━━伊達晴宗━━留守政景