「天正壬午の乱」の版間の差分
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また織田氏の遺領の領有を巡り在地の勢力が抗争を続けたという見地からは、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡に伴う[[徳川家康]]の関東移封と豊臣系の大名配置、慶長3年(1598年)の[[上杉景勝]]の会津移封により、在地の大名が旧領から切り離され、[[織豊政権]]による支配が確立するまでが画期とされている<ref>「近世の幕開け」『日本城郭体系第8巻』41-42頁</ref>。 |
また織田氏の遺領の領有を巡り在地の勢力が抗争を続けたという見地からは、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡に伴う[[徳川家康]]の関東移封と豊臣系の大名配置、慶長3年(1598年)の[[上杉景勝]]の会津移封により、在地の大名が旧領から切り離され、[[織豊政権]]による支配が確立するまでが画期とされている<ref>「近世の幕開け」『日本城郭体系第8巻』41-42頁</ref>。 |
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なお、平山の2015年の『天正壬午の乱 増補改訂版』5頁に「近世の軍記物や江戸幕府編纂の諸記録」および『[[甲斐国志]]』などに「壬午の役」「壬午の合戦」等と記述されているとの言及があるが、「近世の軍記物や江戸幕府編纂の諸記録」とはどの記録のどこに書いてあるのか指示先が明確にされておらず、少なくとも『[[北条記]]』や『[[北条盛衰記]]』、[[徳川氏創業史]]のうちいくつかの軍記には、同年秋の後北条氏と徳川氏の対陣を「若御子対陣」と定義している例は確認できても、平山のいうような用例は確認できない。 |
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== 甲州征伐 == |
== 甲州征伐 == |
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上野・甲斐・信濃の3か国を統治していた織田氏家臣のうち、河尻が死亡し、[[滝川一益]]・[[森長可]]が敗走したことを確認した家康は、[[明智光秀]]を討った[[羽柴秀吉]]と連絡した(根拠史料)。 |
上野・甲斐・信濃の3か国を統治していた織田氏家臣のうち、河尻が死亡し、[[滝川一益]]・[[森長可]]が敗走したことを確認した家康は、[[明智光秀]]を討った[[羽柴秀吉]]と連絡した(根拠史料)。 |
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7月7日に秀吉は、家康に、軍勢を派遣して上・甲・信3か国を確保することを認める書状を送った<ref>柴裕之「織田勢力の関東仕置と徳川家康」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年</ref><ref>ここでの家康の立場、行動は独立した大名としてではなく、織田体制下の一大名として北条氏の討伐を目的にしたものとされている({{Cite journal|和書 |
7月7日に秀吉は、家康に、軍勢を派遣して上・甲・信3か国を確保することを認める書状を送った<ref>柴裕之「織田勢力の関東仕置と徳川家康」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年</ref><ref>ここでの家康の立場、行動は独立した大名としてではなく、織田体制下の一大名として北条氏の討伐を目的にしたものとされている({{Cite journal|和書|author=宮川展夫|month=mar|year=2012|title=天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に|url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/32738/|journal=駒沢史学|issue=78|pages=19-37|publisher=駒沢史学会|issn=0450-6928|naid=120006617561}})(谷口、2011、p.4)。なお、秀吉の書状が家康に送られる前に開かれた[[清洲会議]]でも、家康の行動は織田氏重臣の同意が得られたと考えられている(柴裕之『清須会議』戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4864033015。pp49-50.)</ref>。 |
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=== 北条氏の進軍 === |
=== 北条氏の進軍 === |
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2021年8月20日 (金) 14:21時点における版
天正壬午の乱 | ||
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戦争:戦国時代 (日本) | ||
年月日:天正10年(1582年)6月 - 10月29日 | ||
場所:甲斐・信濃・上野 | ||
結果:北条・徳川の講和により終結 | ||
交戦勢力 | ||
北条軍 | 徳川軍 | 上杉軍 |
指導者・指揮官 | ||
北条氏政 北条氏直 北条氏忠 北条氏勝 北条氏邦など |
徳川家康 依田信蕃 酒井忠次 鳥居元忠など |
上杉景勝 小笠原洞雪斎 |
戦力 | ||
53,000以上 10,000(黒駒合戦) |
10,000以上 2,000(黒駒合戦) |
不明 |
損害 | ||
300(黒駒合戦) | 不明 | 不明 |
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正壬午年(天正10年・1582年)に武田氏の旧領にあたる上・甲・信・駿地方で起きた戦乱の総称、同年3月の織田信長の武田攻め(甲州崩れ)から同年6月の本能寺の変後の若御子対陣に至る一連の動乱を指す[1]。
山梨県史の文脈で壬午の役とは、天正壬午年(1582年)中に山梨県で起きた上記の一連の動乱を指す[2]。また同じ文脈で、1980年に田代孝が若御子対陣のことを特定して天正壬午の戦いと呼んでいる例がある[3]。
平山優は2011年の『武田遺領を巡る争いと秀吉の野望』において、田代と同様に若御子対陣を特定して地域を武田旧領全体に広げて「天正壬午の乱」と呼んでいたが[4]、2015年の『天正壬午の乱 増補改訂版』では、山梨県史における「壬午の役」と同様に天正壬午年中の戦乱全般を地域を武田旧領全体に広げて「天正壬午の乱」と呼び、彼自身の造語と主張している[5]。
武田氏の本国で支配が安定し、天正10年を除いて他国の侵略を受けることが少なかったとされる山梨県と違い[6]、長野県史の文脈では、動乱は天正11年以降も続いたので、例えば『日本城郭大系 第8巻』の「山梨の部」に上記の用例が確認できるのに対し、「長野県の部」では上記のような用語の使用は確認できず[7]、上州の領地を巡る真田氏と徳川氏の抗争は天正13年(1585年)まで続き、上田合戦と呼ばれている。
また織田氏の遺領の領有を巡り在地の勢力が抗争を続けたという見地からは、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡に伴う徳川家康の関東移封と豊臣系の大名配置、慶長3年(1598年)の上杉景勝の会津移封により、在地の大名が旧領から切り離され、織豊政権による支配が確立するまでが画期とされている[8]。
甲州征伐
本能寺の変
若御子対陣
若御子対陣(わかみこたいじん)は、天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後、同年7月下旬から10月下旬まで続いた、甲斐国の若神子・新府における徳川家康と北条氏直の対陣に象徴される、織田信長の遺領を巡る両氏の抗争。10巻本『北条記』や『北条盛衰記』などの近世の軍記で「若御子対陣」と呼ばれており、徳川氏創業史の諸軍記では「家康公の甲州発向」のような言い方が多いが、『参陽実録』に「若御子対陣」の呼称が用いられている[9]。
家康の甲州発向
本能寺の変の発生した天正10年6月2日、堺に滞在していた徳川家康は、畿内を脱出して同月4日に三河の岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還した(根拠史料)[10]。
同月6日に家康は駿河衆・岡部正綱に書状を送り、畿内脱出の途中で死去した穴山梅雪の本拠である甲斐河内領の下山館(身延町下山)における城普請を命じ、富士川・駿州往還(河内路)沿いに菅沼城(身延町寺沢)が築城された(根拠史料)[11]。
同月10日頃、家康は、織田氏の家臣として甲斐一国と信濃諏訪郡を統治していた河尻秀隆のもとへ家臣の本多信俊(百助)を派遣し、河尻に協力の要請を行い、また信濃佐久郡の国衆・依田信蕃を佐久郡へ向かわせた(『当代記』)[12][11]。
6月14日に岩窪館において河尻は本多信俊を殺害した(『三河物語』)[13][14]。『武徳編年集成』によれば、河尻は信俊に不審感を抱き、家康が一揆を扇動し、甲斐を簒奪する意図があったと疑い、信俊を殺害した。
翌15日に甲斐国人衆が一揆を起こし、河尻は脱出を図ったが、18日に一揆勢に殺害された(『三河物語』?)[14]。
岡部は6月12日から同月23日にかけて、曽根昌世と連署で甲斐衆に知行安堵状を発給した(根拠史料)[15]。
上野・甲斐・信濃の3か国を統治していた織田氏家臣のうち、河尻が死亡し、滝川一益・森長可が敗走したことを確認した家康は、明智光秀を討った羽柴秀吉と連絡した(根拠史料)。
7月7日に秀吉は、家康に、軍勢を派遣して上・甲・信3か国を確保することを認める書状を送った[16][17]。
北条氏の進軍
6月中旬に、秩父往還(雁坂口)を守備していた浄居寺城(中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)の大村忠堯(三右衛門尉)・忠友(伊賀守)に率いられた山梨郡倉科(山梨市牧丘町倉科)の土豪・大村党が、大野砦(山梨市大野)に籠城して、北条方に帰属した(『甲斐国志』)[18]。
また、甲斐・相模間の鎌倉街道から近い笛吹市一宮町橋立にあった甲斐国総社の甲斐奈神社(橋立明神)の社家衆・大井摂元も北条方に属した(根拠史料)[18]。
北条氏は、御坂峠の所在する笛吹市御坂町藤野木かまたは?南都留郡富士河口湖町河口に御坂城を築いた[18][19]。
黒駒合戦
御坂峠の北条1万には未だ房相一和が完全には破綻していなかった安房の里見義頼も援軍を出していた[20]。
和睦の成立
10月になって織田体制の織田信雄、織田信孝双方から和睦の勧告があり[21][22]、10月29日、織田信雄を仲介役として北条と家康の間で講和が結ばれた。講和の条件は以下のとおりであった。
- 氏直に家康の娘督姫を娶らせる
- 甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない
和睦後の動向
和議成立後、甲斐では河内領は穴山勝千代に安堵され[23]、かつて小山田氏の支配地域だった郡内領には鳥居元忠 が配置された[24]。甲斐中央部の国中領は躑躅ヶ崎館を本拠とし、平岩親吉と岡部正綱(天正11年の岡部没後は平岩単独)が派遣されて支配を行った[25]。
信濃では天正10年10月の和議の後も徳川氏と在地勢力の間で抗争が続いた[26]。同年12月に諏訪頼忠は家康と和睦したが、依田信蕃は岩尾城攻めで落命した(根拠史料)。上野・沼田領の帰属問題では、真田氏が上杉氏と結んで徳川氏と対立、信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配し、上田合戦に発展した[26]。上杉氏は北部4郡の支配を維持、徳川氏は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得したが、天正18年に豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼし、徳川氏を関東に移封させて旧領から切り離し、豊臣系の大名が配置され、太閤検地が実施され兵農分離が進んで、織豊政権による支配が確立された[26]。慶長3年には上杉景勝が会津に移封された[26]。
研究史
天正壬午年に山梨県で起きた動乱に関しては、1980年の『日本城郭大系 第8巻』の山梨県の部の総説「信玄・勝頼二代と壬午の役」 や[27]、同書に田代孝が若御子対陣のことを特定して記した「研究ノート 天正壬午の戦い」がある[28]。
平成8年(1998年)に平山優は韮崎市穴山町の能見城跡の発掘調査報告書において、築城の背景の解説として「天正壬午の乱」について築城にあまり関係しない内容を長文で述べ、2011年の単行本『武田遺領を巡る争いと秀吉の野望』では上杉氏や後北条氏、豊臣政権や信濃国衆らの動向についても概述しているが、出典の明示の無い、根拠不確かな叙述が多い。こうした平山の著書の問題は既に長篠の戦いに関連して藤本正行や石川博が指摘するところと同様である。
その後、『山梨県史』編纂事業において関係史料が集成された。[要出典]
2014年に石川博は、『甲斐国志』について、同書が武田氏や柳沢氏など甲斐国主に対しては敬称を用いていないが、徳川家に対しては家康を「神祖」と称して敬意を示しており、天正壬午起請文が提出された天正10年を重視した時代区分を用いていると指摘している[29]。
脚注
- 注釈
- 出典
- ^ 平山優『天正壬午の乱 増補改訂版』戎光祥出版、2015年、5頁
- ^ 「信玄・勝頼二代と壬午の役」『日本城郭大系 第8巻』新人物往来社、1980年、319-320頁
- ^ 「研究ノート 天正壬午の戦い」『日本城郭大系 第8巻』新人物往来社、1980年、412-413頁
- ^ 同書6頁「はしがき」
- ^ 同書5頁「はじめに」
- ^ 『日本城郭大系 第8巻』311-312頁
- ^ 前掲『日本城郭大系 第8巻』の長野県の部を参照。
- ^ 「近世の幕開け」『日本城郭体系第8巻』41-42頁
- ^ 巻11「若御子対陣(付)北条和睦」
- ^ 平山 2015, p. 82,124.
- ^ a b 平山 2015, p. 127.
- ^ 依田は武田滅亡時に駿河田中城(静岡県藤枝市)において徳川氏に抗戦しており、武田滅亡後に信濃佐久郡春日城(長野県佐久市)へ帰還していたが、織田氏による処刑を恐れて家康を頼ると庇護され、遠江に潜伏していた(根拠史料)
- ^ 河尻は、武田時代の躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)ではなく、岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としていた(『甲斐国志』『武徳編年集成』)。
- ^ a b 平山 2015, p. 63.
- ^ 平山 2015, p. 129.
- ^ 柴裕之「織田勢力の関東仕置と徳川家康」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
- ^ ここでの家康の立場、行動は独立した大名としてではなく、織田体制下の一大名として北条氏の討伐を目的にしたものとされている(宮川展夫「天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に」『駒沢史学』第78号、駒沢史学会、2012年3月、19-37頁、ISSN 0450-6928、NAID 120006617561。)(谷口、2011、p.4)。なお、秀吉の書状が家康に送られる前に開かれた清洲会議でも、家康の行動は織田氏重臣の同意が得られたと考えられている(柴裕之『清須会議』戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4864033015。pp49-50.)
- ^ a b c 平山 2015, p. 132.
- ^ 『山梨県の地名』p.464
- ^ 竹井英文「“房相一和”と戦国期東国社会」(佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』(岩田書店、2007年) ISBN 978-4-87294-472-3)
- ^ 丸島和洋「北条・徳川間外交の意思伝達構造」『国文学研究資料館紀要』第11号、国文学研究資料館、2015年3月、33-52頁、doi:10.24619/00001469、ISSN 1880-2249、NAID 120005722405。
- ^ 谷口 2011 p.9
- ^ 柴裕之「徳川領国下の穴山武田氏」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
- ^ 柴裕之「徳川氏の甲斐郡内領支配と鳥居元忠」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
- ^ 柴裕之「徳川氏の甲斐国中領支配とその特質」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
- ^ a b c d 「近世の幕開け」『日本城郭大系 第8巻』41-42頁
- ^ 『日本城郭大系 第8巻』新人物往来社、319-320頁
- ^ 『日本城郭大系 第8巻』新人物往来社、412-413頁
- ^ 石川 2014, p. 8.
参考文献
- 市川武治「依田信蕃 甲信侵攻の立役者」『歴史群像シリーズ 徳川家康』学習研究社、1989年。
- 斎藤慎一『戦国時代の終焉』中央公論新社(中公新書1809)、2005年。ISBN 4-12-101809-5
- 『日本城郭大系 第8巻』新人物往来社、1980年
- 平山優『天正壬午の乱』学習研究社、2011年
- 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版、2015年。
- 石川博「『甲斐国志』の編纂、執筆について」『甲斐 第134号』山梨郷土研究会、2014年。