「新青梅街道」の版間の差分

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** 井草三丁目交差点 - 井草四丁目交差点は重複
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起点(大江戸線[[落合南長崎駅]]、[[中井駅]]北方)から[[久米川駅]]まで[[西武新宿線]]と並行し、この区間は東京都心部と[[西武鉄道]]沿線(新宿線のみならず交差道路を介して[[西武池袋線|池袋線]]も)を連絡する役割を持つ。
起点(大江戸線[[落合南長崎駅]]、[[中井駅]]北方)から[[久米川駅]]まで[[西武新宿線]]と並行し、この区間は東京都心部と[[西武鉄道]]沿線(新宿線のみならず交差道路を介して[[西武池袋線|池袋線]]も)を連絡する役割を持つ。


起点の西落合一丁目交差点で、JR[[目白駅]]方面から西行してきた[[東京都道8号|目白通り]]が西北西方向に斜め右折し、直進方向が本街道となる。その後、緩やかな屈曲を繰り返しながら更に西へ進行し、環七通りの丸山陸橋と交差すると線形はほぼ直線となる。更に西の井草三丁目交差点では環八通りが[[井荻トンネル]]として地下を南北に通過する。六差路の富士町交差点では[[東京都道8号|富士街道]]と交差し、[[西東京市]]の北原交差点からは片側2車線に広がる。
起点の西落合一丁目交差点で、JR[[目白駅]]方面から西行してきた[[東京都道8号|目白通り]]が西北西方向に斜め右折し、直進方向が本街道となる。その後、緩やかな屈曲を繰り返しながら更に西へ進行し、環七通りの丸山陸橋と交差すると線形はほぼ直線となる。更に西の井草三丁目交差点では環八通りが[[井荻トンネル]]として地下を南北に通過する。六差路の富士町交差点では[[東京都道8号|富士街道]]と交差し、[[西東京市]]の北原交差点からは片側2車線に広がる。

2020年7月14日 (火) 08:03時点における版

東京都道5号標識
東京都道245号標識
東京都道440号標識
北原交差点にて撮影

新青梅街道(しんおうめかいどう)は、東京都新宿区西落合一丁目から同都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎に至る青梅街道バイパス道路である。

概要

東京都東大和市上北台の新青梅街道と芋窪街道合流点。
将来写真右手奥にある多摩モノレール上北台駅から、写真手前右手方向の新青梅街道へ曲がり、箱根ヶ崎駅へと向かう予定。
(2020年5月24日)

以下都道で構成される。東京都通称道路名設定公告(1984年5月1日)整理番号85。それぞれの区間に付いての詳細は、以下を参照のこと。

起点(大江戸線落合南長崎駅中井駅北方)から久米川駅まで西武新宿線と並行し、この区間では東京都心部と西武鉄道沿線(新宿線のみならず交差道路を介して池袋線も)を連絡する役割を持つ。

起点の西落合一丁目交差点で、JR目白駅方面から西行してきた目白通りが西北西方向に斜め右折し、直進方向が本街道となる。その後、緩やかな屈曲を繰り返しながら更に西へ進行し、環七通りの丸山陸橋と交差すると線形はほぼ直線となる。更に西の井草三丁目交差点では環八通りが井荻トンネルとして地下を南北に通過する。六差路の富士町交差点では富士街道と交差し、西東京市の北原交差点からは片側2車線に広がる。

東村山市から東大和市にかけては萩山駅近辺で西武鉄道の線路が密集している場所を避けるルートを取る。その後東大和市内の奈良橋庚申塚交差点で都道5号旧道(青梅街道)と交差し、ここから新青梅街道が青梅街道より南を通る。青梅街道は旧来の屈曲が多いコースを取るが、新青梅街道は幾度かのカーブを経ながらも直線区間が長く続く。

八高線を越えた直後、瑞穂松原交差点にて青梅街道に合流し、新青梅街道は終点となる。終点の瑞穂松原交差点では起点に向かって直進が新青梅街道、左折が青梅街道となっている。

現在東大和市内の芋窪街道との合流地点から武蔵村山市方面の区間は拡張工事が行われており、2032年を目途に多摩都市モノレール上北台駅から延伸した路線が新青梅街道の真ん中を通る形で箱根ケ崎駅まで繋がる予定である。

地理

通過する自治体

交差する道路

歴史

新青梅街道に該当する都市計画道路は以下の通り。

このうち、江戸時代には「江戸道」、明治時代には「東京街道」と呼ばれた、箱根ヶ崎から田無に至る道路が元々存在しており、東大和市狭山5丁目にある「東京街道入口」交差点より西はこの道路が拡張され、「東京街道入口」交差点より東は新規に敷設された。このため、箱根ヶ崎から東大和市狭山5丁目までの旧道は新青梅街道へ置き換わったが、東大和市狭山5丁目から田無までの旧道は2020年現在も「江戸街道」として存在している。 なお、江戸時代から明治初年の旧道の頃は、道沿いに住む人々にとって青梅街道(当時は青梅道と呼ばれた)よりも江戸への近道であったため、活況していた時期もあったが、明治中期から昭和にかけて寂れていき、農家が点在するだけとなっていた[1]

1963年昭和38年)には大和町(現:東大和市)の清水から奈良橋において開通された[2]

1967年昭和42年)には東村山市において開通された[3]

1969年昭和44年)には大和町の奈良橋から芋窪において開通された[4]

1971年昭和46年)には武蔵村山市において開通された[5]

同年、瑞穂町において開通された[6]

2011年平成23年)より、立川3・2・4号新青梅街道線において計画幅員を18mから30mへと変更する事業が認可された。 事業期間は2023年までの予定[7]

脚注

  1. ^ 大和町教育委員会『青梅街道主婦の見てある記』1970年、103–104頁
  2. ^ 奈良橋庚申塚(東大和市)”. 東大和どっとネット. 2020年7月4日閲覧。
  3. ^ 昭和42年”. 東村山市. 2020年7月4日閲覧。
  4. ^ 奈良橋庚申塚(東大和市)”. 東大和どっとネット. 2020年7月4日閲覧。
  5. ^ 市報 武蔵村山” (PDF). 武蔵村山市 (2010年11月3日). 2020年7月4日閲覧。
  6. ^ 町のあゆみ 瑞穂町”. 瑞穂町. 2020年7月4日閲覧。
  7. ^ 新青梅街道線”. 北多摩北部建設事務所. 2020年7月4日閲覧。

関連項目