「ヨシヤ」の版間の差分
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8歳で即位したが、16歳頃にユダヤ教徒にとっての神[[ヤハウェ|ヤーウェ]]を求め始め、20歳頃から規範的ヤ-ウェ信仰以外の宗教信者の崇拝崇敬する像を偶像と侮蔑して取り除き始めた<ref>第二[[歴代誌]]34章3節-4節</ref>。長じて[[ユダヤ教]]の改革を通した国家の再建を志し、規範的ヤーウェ信仰以外の宗教の信者を弾圧し、その神々の像を偶像と侮蔑して破壊するなど、ヤーウェ信仰国家としてのユダ王国の路線を再確立し、[[申命記改革]]と呼ばれる大規模な改革を行った。このことから旧約聖書の中では優れた王として描かれる。祭司[[ヒルキヤ (祭司)|ヒルキヤ]]が改革を助けた。 |
8歳で即位したが、16歳頃にユダヤ教徒にとっての神[[ヤハウェ|ヤーウェ]]を求め始め、20歳頃から規範的ヤ-ウェ信仰以外の宗教信者の崇拝崇敬する像を偶像と侮蔑して取り除き始めた<ref>第二[[歴代誌]]34章3節-4節</ref>。長じて[[ユダヤ教]]の改革を通した国家の再建を志し、規範的ヤーウェ信仰以外の宗教の信者を弾圧し、その神々の像を偶像と侮蔑して破壊するなど、ヤーウェ信仰国家としてのユダ王国の路線を再確立し、[[申命記改革]]と呼ばれる大規模な改革を行った。このことから旧約聖書の中では優れた王として描かれる。祭司[[ヒルキヤ (祭司)|ヒルキヤ]]が改革を助けた。 |
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ユダヤ教聖典の記述が正しいとするならば、ヨシヤは、規範的ヤーウェ信仰への強い信仰と誇りを持っていたし、それを実際の政策でも反映させた。これには世俗的動機とのつながりもあり、純粋な精神世界だけの理由ではない。多くの世界同様、当時のオリエントでも、国家の独立とは、信ずる神の独立であり、逆に国家の隷属とは、その国家の信ずる神が、宗主国の神の下部に置かれたり、はなはだしいばあい信仰を禁じられ、宗主国の神(ユダヤの場合、[[メソポタミア神話|バビロニア]]や[[エジプト神話|エジプト]]、[[ギリシア神話|ギリシャ]]の神々を押し付けられた、また[[ユダ王国]]や[[イスラエル王国]]も[[モアブ]]などの属国にヤーウェ信仰を強制した)を拝まされることであった。ヨシアは、アッシリアの衰退によって生じた権力の空白に伴いユダ王国の独立を回復したが、[[アッシリア]]や[[古代エジプト|エジプト]]、[[フェニキア]]人諸国家、[[バビロニア]]などと対等な独立国家・独立民族であるユダ王国・ユダヤ人が、他国の神を拝めることは、信仰心からだけでなく、世俗的誇りとしても許せなかったし、ユダ国家の自立を宣言するうえで、民族神へのゆるぎない忠誠と結束は、ユダの独立を守る決意を示すパフォーマンスでもあった。 |
ユダヤ教聖典の記述が正しいとするならば、ヨシヤは、規範的ヤーウェ信仰への強い信仰と誇りを持っていたし、それを実際の政策でも反映させた。これには世俗的動機とのつながりもあり、純粋な精神世界だけの理由ではない。多くの世界同様、当時のオリエントでも、国家の独立とは、信ずる神の独立であり、逆に国家の隷属とは、その国家の信ずる神が、宗主国の神の下部に置かれたり、はなはだしいばあい信仰を禁じられ、宗主国の神(ユダヤの場合、[[メソポタミア神話|バビロニア]]や[[エジプト神話|エジプト]]、[[ギリシア神話|ギリシャ]]の神々を押し付けられた、また[[ユダ王国]]や[[イスラエル王国]]も[[モアブ]]などの属国にヤーウェ信仰を強制した)を拝まされることであった。ヨシアは、アッシリアの衰退によって生じた[[権力の真空|権力の空白]]に伴いユダ王国の独立を回復したが、[[アッシリア]]や[[古代エジプト|エジプト]]、[[フェニキア]]人諸国家、[[バビロニア]]などと対等な独立国家・独立民族であるユダ王国・ユダヤ人が、他国の神を拝めることは、信仰心からだけでなく、世俗的誇りとしても許せなかったし、ユダ国家の自立を宣言するうえで、民族神へのゆるぎない忠誠と結束は、ユダの独立を守る決意を示すパフォーマンスでもあった。 |
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==メギドでの敗北と破滅== |
==メギドでの敗北と破滅== |
2019年5月30日 (木) 15:31時点における版
ヨシヤ יאשיהו | |
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ユダ王 | |
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在位 | 紀元前640/41年 - 紀元前609年 |
死去 |
紀元前609年 メギド |
配偶者 | ハムタル |
子女 |
ヨアハズ エホヤキム ゼデキヤ |
王朝 | ダビデ朝 |
父親 | アモン |
宗教 | ユダヤ教 |
ヨシヤ(יאשיהו, Yošiyyáhu, Yôšiyyāhû, Josiah、? - 紀元前609年、在位:紀元前640年/紀元前641年 - 紀元前609年)は、旧約聖書「列王記」などに登場するユダ王国の王。
アッシリアからの独立
ヨシア王の治世時に、それまでアッシリアに従属していたユダ王国は、アッシリアの衰退によって一時独立を回復した。独立を回復したヨシア王は、ユダ国家の立て直しの為に、後述する宗教的ナショナリズムを高める政策を行う。
ユダヤ教改革者としてのヨシヤ
8歳で即位したが、16歳頃にユダヤ教徒にとっての神ヤーウェを求め始め、20歳頃から規範的ヤ-ウェ信仰以外の宗教信者の崇拝崇敬する像を偶像と侮蔑して取り除き始めた[1]。長じてユダヤ教の改革を通した国家の再建を志し、規範的ヤーウェ信仰以外の宗教の信者を弾圧し、その神々の像を偶像と侮蔑して破壊するなど、ヤーウェ信仰国家としてのユダ王国の路線を再確立し、申命記改革と呼ばれる大規模な改革を行った。このことから旧約聖書の中では優れた王として描かれる。祭司ヒルキヤが改革を助けた。
ユダヤ教聖典の記述が正しいとするならば、ヨシヤは、規範的ヤーウェ信仰への強い信仰と誇りを持っていたし、それを実際の政策でも反映させた。これには世俗的動機とのつながりもあり、純粋な精神世界だけの理由ではない。多くの世界同様、当時のオリエントでも、国家の独立とは、信ずる神の独立であり、逆に国家の隷属とは、その国家の信ずる神が、宗主国の神の下部に置かれたり、はなはだしいばあい信仰を禁じられ、宗主国の神(ユダヤの場合、バビロニアやエジプト、ギリシャの神々を押し付けられた、またユダ王国やイスラエル王国もモアブなどの属国にヤーウェ信仰を強制した)を拝まされることであった。ヨシアは、アッシリアの衰退によって生じた権力の空白に伴いユダ王国の独立を回復したが、アッシリアやエジプト、フェニキア人諸国家、バビロニアなどと対等な独立国家・独立民族であるユダ王国・ユダヤ人が、他国の神を拝めることは、信仰心からだけでなく、世俗的誇りとしても許せなかったし、ユダ国家の自立を宣言するうえで、民族神へのゆるぎない忠誠と結束は、ユダの独立を守る決意を示すパフォーマンスでもあった。
メギドでの敗北と破滅
ユダヤ教聖典の記述他によると、エジプトのファラオ・ネコ2世は、崩壊していたアッシリア王国の残存勢力を支援し、新興国バビロニアを撃破するため、メソポタミアに遠征した。しかしその途中では、必然的にパレスチナに位置するユダ王国の領土を通過する必要があり、実際に領土内に侵入した後、ユダ王であるヨシアに、エジプト軍のユダ領土内での無事な通行を保障するよう要請した。 この時『列王記(下)』第23章と『歴代誌(下)』第35章ではヨシアはネコ2世をわざわざ妨害しようと出て行って[2]メギドでエジプト軍の矢を受けて死亡した(メギドの戦い)。
後のユダヤ人もヨシヤがなぜこのような事をしたのかよく分からなかったらしく、フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』第X巻5章1節で「(ヨシヤの行動理由は)運命の女神[3]が彼を滅ぼす口実にしたと思われる」と説明になってない説明をしている[4]。
メギドでのヨシアの死後、一度はヨシアの子ヨアハズが即位したが、戦の帰り道に立ち寄ったネコ2世はヨアハズを廃位してヨアハズの兄弟エホヤキムを新しい王にした。ヨシアの敗北により、ユダ王国の完全独立は再び失われ、エジプトに金銀を納めさせられる従属国となった[5]。
脚注
- ^ 第二歴代誌34章3節-4節
- ^ 特に歴代誌の方ではネコはこの時使者を送って、少なくとも外形に表れた文言としては、エジプトは(少なくともこの時点では)ユダ王国を攻める為に軍を起こしたのではなく、ユダ王国に敵意はないと断っていたとしている
- ^ 原文はテュケー、信仰対象的なものというより運命の擬人化。
- ^ フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌3 旧約時代編[VIII][XI][XI][XI]』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08533-5、P250。
- ^ 『列王記(下)』第23章と『歴代誌(下)』第36章