ヒゼキヤ

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ヒゼキヤ(? - 紀元前687年)は、紀元前700年頃のユダ王国の王。

ユダ王国屈指の名君といってよく、旧約聖書歴代誌下」では「神の言葉に従順で、神の御目に適う事柄を行った」と記されている。当時は優秀な指導者の下に強国となったアッシリアとうまく中立を保っていたが、やがてエジプトがアッシリアに対し戦争を起こすと、それに押される形でエジプト側に就いた。アッシリア王センナケリブはユダ王国へ侵攻したが、このときセンナケリブはユダ王国陥落目前にして突如軍を撤退させたという逸話がある(en:Assyrian Siege of Jerusalem)。撤退の理由は詳しくはわかっていないが、この逸話と共にもともと信仰深かったヒゼキヤの人物像が重なり、旧約聖書では最高の名君であったと記されている。

ヒゼキヤの治世において特筆すべきなのは、地下水路の開発である。ユダ王国は四方を山に囲まれており、防御は非常に堅かったが、兵糧攻めや断水といった手段をとられると弱かった。このため、ヒゼキヤは広大な地下水路を開削させ、恒常的な飲料水の確保に成功する。この水路は現在も残っており、「ヒゼキヤの泉」と呼ばれる。泉には当時の碑文も残されており、これが古代アラム語英語版の解読に貢献した「シロアム碑文英語版」である。

ヒゼキヤは、強大国の間での外交を繰り広げユダが他国の属国となることを回避し、かつ宗教上も大国の宗教に事大(当時のオリエントでは、世俗的な従属に伴って他国の神を崇拝させられることが多かった)せず民族神のヤーウェ信仰を重視した。ユダヤ教聖典の記述を信用する限り、民族信仰であるヤーウェ信仰に忠実であり、ソロモン王やアハブ王の示したような(バアル神などの)他国・他民族宗教への寛容性・コスモポリタン性では強く劣っていたが、必要に応じ宗教の違うエジプトとも手を結んで、アッシリアに対抗し、ユダ王国の独立を守った。世俗的な独立と、精神的な独立の双方を追求し、一定程度成功をおさめたといえる。