「范陽邁2世」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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さらに勢いに乗じた宋軍が王都{{仮リンク|シンハプラ|vi|Simhapura}}に迫ると、范陽邁2世は[[戦象]]を出して応戦した。しかしこれも宗{{Lang|ko|愨}}の機転によって宋軍が[[ライオン|獅子]]を模ったものを立てると、象は驚いて逃走したために大敗を喫した。范陽邁2世はその子とともに逃亡し、シンハプラも宋軍の手に落ちて<ref name="Coedes57"/>黄金数十万金を奪われた<ref name="sakurai65">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=65}}</ref>。宋軍が引き上げた後にシンハプラに戻ったが、家屋が荒らされて人もまばらな有様を見て憤り、心臓発作を引き起こして死去した<ref name="Coedes57"/>

== 出典 ==
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== 参考資料 ==
== 参考資料 ==
*{{Cite book|author=[[ジョルジュ・セデス|George Cœdès]]|date=May 1, 1968|title=The Indianized States of South-East Asia|publisher=[[ハワイ大学システム|University of Hawaii]][[:en:University of Hawaii Press| Press]]|isbn=978-0824803681}}
*{{Cite book|author=[[ジョルジュ・セデス|George Cœdès]]|date=May 1, 1968|title=The Indianized States of South-East Asia|publisher=[[ハワイ大学システム|University of Hawaii]][[:en:University of Hawaii Press| Press]]|isbn=978-0824803681|ref={{SfnRef|Cœdès}}}}
*{{Cite book|author=Geetesh Sharma|year=2010|title=Traces of Indian Culture in Vietnam|publisher=[[:en:Rajkamal Prakashan|Rajkamal Prakashan]]|isbn=978-8190540148|ref={{SfnRef|Sharma}}}}
*{{Cite book|和書|editor=[[石井米雄]]、[[桜井由躬雄]]編|title=東南アジア史 I 大陸部|series=新版 世界各国史 5|publisher=[[山川出版社]]|date=1999年12月20日|isbn=978-4634413504}}
*『[[宋書]]』巻九十七 列伝第五十七 夷蛮
*『[[宋書]]』巻九十七 列伝第五十七 夷蛮
*『[[南斉書]]』巻五十八 列伝第三十九 林邑国
*『[[南斉書]]』巻五十八 列伝第三十九 林邑国
*『[[梁書]]』巻五十四 列伝第四十八 林邑国
*『[[梁書]]』巻五十四 列伝第四十八 林邑国
*『[[南史]]』巻七十八 列伝第六十八 林邑国
*『[[南史]]』巻七十八 列伝第六十八 林邑国
*『{{仮リンク|越史略|zh|越史略}}』巻上 歴代守任
*『[[大越史記全書]]』外紀巻之四 属呉晋宋斉梁紀
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*『[[水経注]]』巻三十六 鬱水
*『[[水経注]]』巻三十六 鬱水


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2019年2月10日 (日) 07:13時点における版

范陽邁2世
第3王朝
第2代国王
国号 チャンパ王国
王朝 第3王朝
在位期間 425年? - 446年
姓・諱 范咄
生年 407年?
没年 446年
范陽邁1世

范陽邁2世(はんようまい2せい、ベトナム語: Phạm Dương Mại II, 407年? - 446年)は、チャンパ王国林邑国中国語版)第3王朝の第2代国王(在位:425年?[1] - 446年)。

生涯

范陽邁1世の子[1][2]。初名を范咄ベトナム語: Phạm Xót)といったが、父王の死後に即位すると、父にあやかって「陽邁」と改名した。430年南朝に遣使して交州と睦まじくしないことを伝え、許しを求めた。翌431年には百隻余りの船団をもって日南郡に侵攻した[2]。婚儀に出かけて不在であった時に、交州刺史の阮弥之の反撃を受け、その従弟の奮威将軍阮謙之率いる軍にクルンベトナム語版を包囲された[2]が、暴風雨の影響もあって持ちこたえることができた[2]。范陽邁2世は交州を攻めようとして[2]扶南シュリ・インドラヴァルマン1世ロシア語版に援兵を求めたが、断られた[2]432年5月には宋に朝貢の使者を送り、以前のように日南郡をチャンパに帰属させるように求めたが、文帝に道が遠いことを理由に拒絶された。以降も433年436年437年440年に朝貢を行ったがなおも交州への侵攻をやめなかった。

446年2月、文帝は宋に朝貢しながらも物品が少なく、さらにはしばしば交州を劫掠していることを理由に交州刺史の檀和之中国語版に林邑討伐を命じ、振武将軍の率いる軍が侵攻してきた[2]。宋軍が先鋒を蕭景憲としたのを聞いて恐れた范陽邁2世は金銀を贈って、侵略した日南郡の民戸を返そうとしたが、大臣の僧達(『南斉書』では僧達、『南史』では僧達とする)に諌められて翻意した。帰順する気があるか宋軍から府戸曹参軍の姜仲基が遣わされてきたが、これを捕らえたために檀和之の怒りを招いた。大帥の范扶龍中国語版が守るクルンが宋軍に包囲される[2]と将軍の沙達中国語版を范扶龍の救援に差し向けた。しかし、范沙達は宗の伏兵に遭って敗北し、5月には范扶龍も敗死してクルンは陥落した[3]。 さらに勢いに乗じた宋軍が王都シンハプラベトナム語版に迫ると、范陽邁2世は戦象を出して応戦した。しかしこれも宗の機転によって宋軍が獅子を模ったものを立てると、象は驚いて逃走したために大敗を喫した。范陽邁2世はその子とともに逃亡し、シンハプラも宋軍の手に落ちて[2]黄金数十万金を奪われた[4]。宋軍が引き上げた後にシンハプラに戻ったが、家屋が荒らされて人もまばらな有様を見て憤り、心臓発作を引き起こして死去した[2]

出典

  1. ^ a b Sharma, p. 107
  2. ^ a b c d e f g h i j Cœdès, p. 57
  3. ^ 桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史 I 大陸部』、64頁。 
  4. ^ 桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史 I 大陸部』、65頁。 

参考資料

  • George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681 
  • Geetesh Sharma (2010). Traces of Indian Culture in Vietnam. Rajkamal Prakashan. ISBN 978-8190540148 
  • 石井米雄桜井由躬雄編 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504 
  • 宋書』巻九十七 列伝第五十七 夷蛮
  • 南斉書』巻五十八 列伝第三十九 林邑国
  • 梁書』巻五十四 列伝第四十八 林邑国
  • 南史』巻七十八 列伝第六十八 林邑国
  • 越史略中国語版』巻上 歴代守任
  • 大越史記全書』外紀巻之四 属呉晋宋斉梁紀
  • 水経注』巻三十六 鬱水
先代
范陽邁1世
チャンパ王
第3王朝第2代:
425年? - 446年
次代
デーヴァニカ