「ウィレム2世 (ホラント伯)」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
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[[画像:Guillaume II de Hollande.png|thumb|ホラント伯ウィレム2世]] |
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| 人名 = ヴィルヘルム |
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| 各国語表記 = Wilhelm. |
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| 君主号 = ローマ王<br>ホラント伯 |
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| 画像 = Guillaume II de Hollande.png |
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| 画像説明 = |
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| 在位 = [[1247年]] - [[1256年]] |
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| 戴冠日 = |
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| 別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = [[1227年]][[2月]] |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[1256年]][[1月28日]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 配偶者1 = エリーザベト・フォン・ブラウンシュバイク=リューネブルク |
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| 配偶者2 = |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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1247年、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の対立王[[テューリンゲン方伯]][[ハインリヒ・ラスペ]]が死去した後、諸侯と[[教皇]][[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]によって新たな対立王に選出された<ref>成瀬 他、p. 281</ref>。 |
1247年、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の対立王[[テューリンゲン方伯]][[ハインリヒ・ラスペ]]が死去した後、諸侯と[[教皇]][[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]によって新たな対立王に選出された<ref>成瀬 他、p. 281</ref>。 |
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[[1250年]]にフリードリヒ2世、1254年に[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]が死亡して単独の |
[[1250年]]にフリードリヒ2世、1254年に[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]が死亡して単独のローマ王になったが、1256年冬、[[フリースラント]]への遠征中に戦死した<ref>ある説では、ウィレム2世は指揮中に誰も気づかないうちに、馬もろとも凍結した沼に落ちてそのまま溺死し、その遺体が発見されたのが26年後だったと伝わる(菊池、p. 132)。</ref>。ウィレムの死によってドイツは君主不在の混乱が発生した。 |
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[[1252年]]1月25日、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]][[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー1世]]の娘エリーザベトと結婚し、[[フロリス5世 (ホラント伯)|フロリス5世]]のみが生まれた。ウィレム2世の死後、ホラントは2歳に満たないフロリス5世が継いだ。 |
[[1252年]]1月25日、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]][[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー1世]]の娘エリーザベトと結婚し、[[フロリス5世 (ホラント伯)|フロリス5世]]のみが生まれた。ウィレム2世の死後、ホラントは2歳に満たないフロリス5世が継いだ。 |
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{{先代次代|[[神聖ローマ皇帝一覧|ローマ王(ドイツ王)]]|1247年 - 1256年<br /><small>([[大空位時代]])</small><br /><small>1254年まで[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]の[[対立王]]</small>|[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]|[[リチャード (コーンウォール伯)|コーンウォール伯リチャード]]<br />[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]}} |
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{{先代次代|[[ホラント伯]]|1234年 - 1256年|[[フロリス4世 (ホラント伯)|フロリス4世]]|[[フロリス5世 (ホラント伯)|フロリス5世]]}} |
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2017年6月18日 (日) 04:39時点における版
ヴィルヘルム Wilhelm. | |
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ローマ王 ホラント伯 | |
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在位 | 1247年 - 1256年 |
出生 |
1227年2月 |
死去 |
1256年1月28日 |
配偶者 | エリーザベト・フォン・ブラウンシュバイク=リューネブルク |
ウィレム2世(Willem II, 1227年 - 1256年1月28日)はローマ王(ドイツ王、在位:1247年 - 1256年、1254年まで対立王)及びホラント伯(在位:1234年 - 1256年)。ドイツ名はヴィルヘルム・フォン・ホーラント Wilhelm von Holland, 。神聖ローマ帝国の大空位時代における名目上の君主の一人であり、1254年の公式文書に「神聖ローマ帝国」の国号を正式に用いた最初の君主でもある[1]。
生涯
父はホラント伯フロリス4世、母はブラバント公アンリ1世の娘マティルド。
1247年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の対立王テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが死去した後、諸侯と教皇インノケンティウス4世によって新たな対立王に選出された[2]。
1250年にフリードリヒ2世、1254年にコンラート4世が死亡して単独のローマ王になったが、1256年冬、フリースラントへの遠征中に戦死した[3]。ウィレムの死によってドイツは君主不在の混乱が発生した。
1252年1月25日、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世の娘エリーザベトと結婚し、フロリス5世のみが生まれた。ウィレム2世の死後、ホラントは2歳に満たないフロリス5世が継いだ。
脚注
参照文献
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