「沢松和子」の版間の差分
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[[1968年]]の[[1968年全仏オープン|全仏オープン]]から、沢松和子の世界挑戦が始まる。それから5年後、[[1973年]]1月の[[1973年全豪オープン|全豪オープン]]で、沢松は準々決勝で[[イギリス]]の[[バージニア・ウェード]]を 0-6, 6-1, 6-4 の逆転で破ったが、続く準決勝で[[オーストラリア]]の[[イボンヌ・グーラゴング]]に 4-6, 3-6 で敗れた。グーラゴングには[[1975年]]の[[1975年全豪オープン|全豪オープン]]準々決勝と、最後の4大大会出場となった[[1975年全米オープン (テニス)|全米オープン]]でも敗れている。 |
[[1968年]]の[[1968年全仏オープン|全仏オープン]]から、沢松和子の世界挑戦が始まる。それから5年後、[[1973年]]1月の[[1973年全豪オープン|全豪オープン]]で、沢松は準々決勝で[[イギリス]]の[[バージニア・ウェード]]を 0-6, 6-1, 6-4 の逆転で破ったが、続く準決勝で[[オーストラリア]]の[[イボンヌ・グーラゴング]]に 4-6, 3-6 で敗れた。グーラゴングには[[1975年]]の[[1975年全豪オープン|全豪オープン]]準々決勝と、最後の4大大会出場となった[[1975年全米オープン (テニス)|全米オープン]]でも敗れている。 |
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[[1975年]]の[[1975年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、沢松和子はシングルスの3回戦で第1シードの[[クリス・エバート]]に 2-6, 2-6 で敗れたが、日系3世選手である[[アン清村]]とペアを組んだ女子ダブルスで快進撃を見せた。決勝戦の相手は[[フランソワーズ・デュール]]([[フランス]])&[[ベティ・ストーブ]]([[オランダ]])組に決まった。大会最終日、男子シングルス決勝戦の終了後、沢松は日本人女子選手として初めてウィンブルドンのセンター・コートに足を踏み入れ、7-5, 1-6, 7-5 のスコアで強豪ペアを倒した。当時は衛星中継が始まって間もない時期であり、この試合の模様が録画でテレビ放映されたため、日本人女性初の快挙は全国に大反響を及ぼし、テニスブームが空前の規模で広がった。ウィンブルドンの前後にはシングルスでも好成績を出し、[[1975年全仏オープン|全仏オープン]]では[[クリス・エバート]]との準々決勝まで進み(スコア:2-6, 2-6)、[[1975年全米オープン (テニス)|全米オープン]]でも準々決勝に進出したが、[[イボンヌ・グーラゴング]]に 6-7, 5-7 で惜敗した。これを最後に、沢松和子はテニス界から[[引退]]した。。[[日本プロスポーツ大賞]]殊勲賞受賞。 |
[[1975年]]の[[1975年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、沢松和子はシングルスの3回戦で第1シードの[[クリス・エバート]]に 2-6, 2-6 で敗れたが、日系3世選手である[[アン清村]]とペアを組んだ女子ダブルスで快進撃を見せた。決勝戦の相手は[[フランソワーズ・デュール]]([[フランス]])&[[ベティ・ストーブ]]([[オランダ]])組に決まった。大会最終日、男子シングルス決勝戦の終了後、沢松は日本人女子選手として初めてウィンブルドンのセンター・コートに足を踏み入れ、7-5, 1-6, 7-5 のスコアで強豪ペアを倒した。当時は衛星中継が始まって間もない時期であり、この試合の模様が録画でテレビ放映されたため、日本人女性初の快挙は全国に大反響を及ぼし、テニスブームが空前の規模で広がった。ウィンブルドンの前後にはシングルスでも好成績を出し、[[1975年全仏オープン|全仏オープン]]では[[クリス・エバート]]との準々決勝まで進み(スコア:2-6, 2-6)、[[1975年全米オープン (テニス)|全米オープン]]でも準々決勝に進出したが、[[イボンヌ・グーラゴング]]に 6-7, 5-7 で惜敗した。これを最後に、沢松和子はテニス界から[[引退]]した。。[[自民党幹事長]][[中曽根康弘]]が会長たる[[日本プロスポーツ会議]]から[[日本プロスポーツ大賞]]殊勲賞受賞。 |
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2014年8月20日 (水) 09:28時点における版
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基本情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
出身地 | 同・兵庫県西宮市 | |||
生年月日 | 1951年1月5日(73歳) | |||
身長 | 174cm | |||
体重 | 61kg | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1968年 | |||
引退年 | 1975年 | |||
ツアー通算 | 1勝 | |||
シングルス | 0勝 | |||
ダブルス | 1勝 | |||
生涯通算成績 | 95勝50敗 | |||
シングルス | 53勝27敗 | |||
ダブルス | 42勝23敗 | |||
生涯獲得賞金 | 値なし | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト4(1973) | |||
全仏 | ベスト8(1975) | |||
全英 | 3回戦(1970・71・74・75) | |||
全米 | ベスト8(1975) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | ベスト8(1974) | |||
全仏 | ベスト4(1975) | |||
全英 | 優勝(1975) | |||
全米 | 3回戦(1973・75) | |||
優勝回数 | 1(英1) | |||
沢松 和子(さわまつ かずこ, 1951年1月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元女子テニス選手。1975年のウィンブルドン女子ダブルス部門で、日系人選手のアン清村とペアを組んで優勝し、日本人女子テニス選手として史上初の4大大会タイトルを獲得した名選手である。神戸松蔭女子学院大学卒業。身長174cm、体重61kg、右利き。姉の沢松順子もテニス選手で、順子の娘である沢松奈生子は姪にあたる。
選手経歴
沢松家は、和子から見れば祖父の時代からのテニス名門一家だった。西宮市にあるテニスコートつきの家で、和子と順子の2人姉妹は自然にテニスに親しんでいった。和子は1967年、16歳の時に第42回全日本テニス選手権と全日本室内テニス選手権で優勝し、同年にジュニアテニス選手の登竜門と言われる「オレンジボウル選手権」の女子シングルスでも優勝を果たす。それ以後、1967年から1975年までの足掛け8年間で、彼女は日本国内の試合で「192連勝」の記録を樹立する。それから2年後、18歳になった1969年には全仏オープンとウィンブルドンの女子ジュニア部門で優勝し、4大大会のジュニア2大会連続優勝を飾った。当時の日本テニス界には「アマチュア」も「プロフェッショナル」もなかったが、その中で沢松和子は日本人テニス選手として史上初の「プロ選手」になった。1970年から1975年まで、女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップの日本代表選手を務める。
1968年の全仏オープンから、沢松和子の世界挑戦が始まる。それから5年後、1973年1月の全豪オープンで、沢松は準々決勝でイギリスのバージニア・ウェードを 0-6, 6-1, 6-4 の逆転で破ったが、続く準決勝でオーストラリアのイボンヌ・グーラゴングに 4-6, 3-6 で敗れた。グーラゴングには1975年の全豪オープン準々決勝と、最後の4大大会出場となった全米オープンでも敗れている。
1975年のウィンブルドンで、沢松和子はシングルスの3回戦で第1シードのクリス・エバートに 2-6, 2-6 で敗れたが、日系3世選手であるアン清村とペアを組んだ女子ダブルスで快進撃を見せた。決勝戦の相手はフランソワーズ・デュール(フランス)&ベティ・ストーブ(オランダ)組に決まった。大会最終日、男子シングルス決勝戦の終了後、沢松は日本人女子選手として初めてウィンブルドンのセンター・コートに足を踏み入れ、7-5, 1-6, 7-5 のスコアで強豪ペアを倒した。当時は衛星中継が始まって間もない時期であり、この試合の模様が録画でテレビ放映されたため、日本人女性初の快挙は全国に大反響を及ぼし、テニスブームが空前の規模で広がった。ウィンブルドンの前後にはシングルスでも好成績を出し、全仏オープンではクリス・エバートとの準々決勝まで進み(スコア:2-6, 2-6)、全米オープンでも準々決勝に進出したが、イボンヌ・グーラゴングに 6-7, 5-7 で惜敗した。これを最後に、沢松和子はテニス界から引退した。。自民党幹事長中曽根康弘が会長たる日本プロスポーツ会議から日本プロスポーツ大賞殊勲賞受賞。
現役選手引退後は、吉田宗弘(現・吉田記念テニス研修センター理事長)との結婚により「吉田和子」の名前に変わる。現在は千葉県柏市に在住し、自宅の敷地で吉田記念テニス研修センターを運営している。
沢松和子が樹立した金字塔は、日本のテニス界に計り知れない刺激を与えた。この後、日本国内でも多くのテニストーナメントが創設され、テニスファンの層も広がっていく。やがて井上悦子、雉子牟田明子などが世界女子テニスツアーに挑戦を始め、日本最大の女子テニス選手となった伊達公子の時代にピークを迎えた。
外部リンク
- 沢松和子 - WTAツアーのプロフィール (英語)
- 沢松和子 - ビリー・ジーン・キング・カップのプロフィール (英語)
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