コンテンツにスキップ

雉子牟田明子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
雉子牟田 明子
Akiko Kijimuta
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 同・神奈川県海老名市
生年月日 (1968-05-01) 1968年5月1日(56歳)
身長 162cm
体重 54kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1983年
引退年 1994年
ツアー通算 0勝
シングルス 0勝
ダブルス 0勝
生涯通算成績 159勝211敗
シングルス 126勝148敗
ダブルス 33勝63敗
生涯獲得賞金 323,209 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 3回戦(1987・88)
全仏 4回戦(1992)
全英 3回戦(1988)
全米 3回戦(1987)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 2回戦(1998・94)
全仏 1回戦(1991・94)
全英 2回戦(1992)
全米 1回戦(1991・92)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 49位
ダブルス 93位

雉子牟田 明子(きじむた あきこ, 現姓:中島、1968年5月1日 - )は、神奈川県海老名市出身の元女子プロテニス選手。桜美林大学卒業。妹の雉子牟田直子も元プロテニス選手である。シングルス自己最高ランキングは49位。旭硝子に所属した。

来歴

[編集]

日本では比較的珍しい早熟選手で、中学3年生(15歳)だった1983年全日本テニス選手権の女子シングルスで「15歳4か月」の史上最年少優勝記録を樹立した。翌1984年にプロ入りし、当時の日本女子テニスの先駆者であった井上悦子の後を追いながら世界挑戦を始めた。1984年ロサンゼルス五輪の「公開競技」にも16歳で出場した。これはテニスがオリンピック種目として正式に復活する前、「21歳以下」の選手を対象に行われた試合だったが、この時の女子シングルス優勝者は当時15歳のシュテフィ・グラフ(旧西ドイツ)であった。

1984年から1992年まで、女子国別対抗戦・フェドカップ(当時の名称は「フェデレーション・カップ」)の日本代表として活躍した。とりわけ1989年のフェデレーション・カップは東京有明コロシアムが会場だったが、そこで雉子牟田は1回戦のスウェーデン戦で当年度のウィンブルドンベスト4、カタリナ・リンドクイストを破った。2回戦の西ドイツ戦で、当時の世界ランキング1位であったシュテフィ・グラフに挑戦し、世界66位の挑戦者として大健闘を見せた。1990年の「北京アジア大会」で個人シングルス優勝・団体優勝の2冠を獲得した。

1992年全仏オープン女子シングルスで、雉子牟田は4回戦で第1シードのモニカ・セレシュに食らいついたが、1-6, 6-3, 4-6 で惜敗した。この時は伊達公子グランドスラム大会で初めてシード選手に選ばれ(第14シード)、彼女もアランチャ・サンチェス・ビカリオとの4回戦まで進出したため、日本女子選手が2人ベスト16入りするという日本テニス界にとって大きな前進となる大会となった。雉子牟田本人にとっては、これが国際舞台での最後の活躍となった。

1994年に現役を引退し、現在はジュニア選手の指導に携わっている。

出演

[編集]

テレビ番組

[編集]

CM

[編集]
  • 旭硝子(1987年、企業広告「創立80周年」)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 全日本テニス女子最年少優勝、雉子牟田明子さんから発掘!”. NHKアーカイブス. NHK番組発掘プロジェクト通信. NHK日本放送協会. 2023年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月11日閲覧。

外部リンク

[編集]