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[[ファイル:Karl Ritter mit del Fliegerin Hanna Reitsch in einem Scheibe-Falken 1968.jpg|thumb|200px|[[カール・リッター (パイロット)|カール・リッター]]と(1968年)]]戦後、ドイツ人の航空機での飛行は禁止されていたが、グライダー飛行はまもなく許可され、スペインでのグライディング世界大会で3位になったのを手始めに、女性の高度飛行記録(6848 m)を含む数々の世界記録を更新し続け、[[1955年]]にはドイツチャンピオンに<!-- 英版では脚注なし -->。
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2013年4月11日 (木) 13:12時点における版

二級鉄十字章を授与され故郷ヒルシュベルクを凱旋訪問するライチュ(1941年4月)

ハンナ・ライチュ(独:Hanna Reitsch1912年3月29日 - 1979年8月24日)は、ドイツパイロットテストパイロット。ドイツ人女性初のヘリコプター、ロケット戦闘機、ジェット戦闘機搭乗者として知られる。

来歴・人物

世界初のヘリコプターによるデモンストレーション飛行

1936年のライチュ

シレジア地方のヒルシュベルク(現 ポーランド ドルヌィ・シロンスク県イェレニャ・グラ)に、眼科医の父とチロル貴族の母との間に生まれる[1]。自分も医者を目指していたが、学生の頃にグライダーに乗って空を飛ぶ魅力にとりつかれ、北アフリカで飛行往診医になることを考えていた[2]1932年にグライダー初飛行を果たし、1933年に医学校を辞め、ヴォルフ・ヒルトの招きでバーデン=ヴュルテンベルク州ホルンベルクにあるフォン・ブラウンも通ったグライダークラブに入った。1937年、ドイツ空軍のシュテッティン飛行学校に女性で初めて入校を認められ、エルンスト・ウーデット空軍少将によって空軍のテストパイロットに配属となる。

グライダー飛行では、様々な世界記録を樹立[3]。また、ユンカースJu87シュトゥーカドルニエDo17をはじめ、女性で初めてヘリコプター フォッケウルフFw61ヘリコプターの操縦者となる。彼女の卓抜とした飛行技能は、1930年代後半から40年代初めにかけてナチ党の恰好の宣伝プロパガンダ)に使用された。

1938年のライチュ。フィーゼラー社の技術者・エーリッヒ・バッヘム英語版と。
フォッケウルフ Fw61

1938年、ベルリン・モーターショーのドイッチュラントハレ屋内競技場(ドイツ会館)にて、世界で初めての実用ヘリコプター フォッケウルフFw61によるデモンストレーション飛行を行う。ただ、このヘリコプターの技術的意義について当時無知であった観衆の反応はあまり芳しいものではなかった。まもなくして、このヘリコプター飛行に対して空軍功労賞を授与される[4]

当初男性パイロットと同時にパフォーマンスを行なう予定だったが、男性パイロットが恐れをなして4mしか上昇しようとしなかったのに対し、ハンナは軽々と100m以上上昇しきってしまったため急遽単独でのデモンストレーションが決まった[4]

ライヒェンベルクと第三帝国の敗北

1941年3月、ヒトラー総統に二級鉄十字章を授与されるライチュ

1939年、世界初のジェット戦闘機 メッサーシュミットMe262シュヴァルベやロケット戦闘機 メッサーシュミットMe163コメートなどのテストパイロットを務める。Me163の5回目のテスト飛行中、重傷を負い、意識不明のまま5ヶ月間入院した。

1941年3月27日、それまでのテスト飛行に対して空軍搭乗員に授けられる黄金の功労賞を国家元帥 ヘルマン・ゲーリングから授与される。この受章の際、ライチュが小柄(155cm)だったことにゲーリングから大きな驚きをもって両手を広げる大袈裟なジェスチャーで迎えられたが、これに癇に障ったライチュ自身も両手を大きく広げるジェスチャーで応じた。翌28日、総統 アドルフ・ヒトラーより二級鉄十字章を受章。ドイツ人女性の鉄十字受章者はライチュを入れて二人だった[5][6]。ヒトラー総統お気に入りのパイロットであったばかりでなく、程なくして、ローベルト・フォン・グライム空軍上級大将と近しい関係になる。

1944年2月28日には、ドイツ人女性唯一の一級鉄十字章を授与される[7]

1943年から1944年3月にかけて、日本の特殊攻撃機桜花」に類似するフィーゼラー Fi103Rライヒェンベルクの試作の中心となって参加する。この“自己犠牲攻撃”の試案はライチュらの発案であり[8]、まもなくオットー・スコルツェニーSS中佐も援助を申し出てきた[9]。同年4月、ライチュらの要望が通ってヒトラー総統が第200爆撃航空団第5飛行中隊(レオニダス飛行中隊)を提唱した。ライチュ自身も、この“自己犠牲攻撃隊”に初期から志願したメンバーであった[10]が、この自己犠牲攻撃隊構想自体は遂に実現することはなかった。その後もライチュ自身は、テストパイロットとして非凡な才能を持っていたこともあって実戦には殆ど赴むこともなかった。 1945年4月26日、グライムの空軍総司令官発令のため、グライム空軍上級大将自身が操縦するフィーゼラーFi156シュトルヒに乗って赤軍が包囲するベルリンに向ったが、赤軍の激しい砲撃のなか、装甲車からの砲撃弾がグライムに命中し意識不明になったため、ライチュがガソリンが漏れていつ爆発してもおかしくないシュトルヒを操縦してベルリン市内まで飛ぶこととなった。ベルリン市内上空まで到達し、ブランデンブルク門そばのティアガルテンハンス・バウアーによって設けられていた促成滑走路への強行着陸に成功した。意識の無いグライムを背負ってブランデンブルク門を抜けたところでドイツ軍トラックに拾われ、総統地下壕(フューラーバンカーあるいはヒューラーブンカー)に向った[11]

ベルリン陥落直前にあたるこの総統地下壕で3日間を過ごし、ヒトラー総統からグライム、ライチュともそれぞれ致死量の毒瓶を渡され、両人とも唯唯諾諾と受け取った[12]。総統地下壕では当時の主だった面子にも会い、その中にはエヴァ・ブラウンもいた。また、ゲッベルス夫人・マグダ・ゲッベルスから先夫の息子へ宛てた手紙をも受け取った[13]。同年4月28日、2人はアラドAr96高等練習機に乗せられてベルリンからの脱出に成功した。ティアガルテン北側から迫った赤軍は「ヒトラー脱出」を危惧し、猛烈な砲撃を加えたが失敗に終わった[14] [15]

ベルリン陥落後まもなくしてグライム元帥空軍総司令官と共に米軍に捕われ、“重要犯罪人”として情報将校らに尋問・取調べを受けた。ヒトラーをどこかへ隠したのではないかと、時に別荘で懇切丁寧な扱いを受け、あるいは刑務所では棍棒に打たれたりした[16]。総統地下壕を去る命令を受けた時の心象を聞かれた際、二人共に総統地下壕で死ねなかったことを悔やんでいること、ライチュは総統地下壕の前に祈りをささげたいことを答弁。のち、グライムは1945年5月24日に毒によって自決を果たしたが、ライチュは15ヶ月間の拘留の末に釈放された[17]。「ドイツ人追放」を前に、ヒルシュベルクの実家の父は母・姉妹・姉妹の子供らを道連れに一家心中を果たしていた[18][19]

グライダーの世界へ再び

カール・リッター (映画監督)と(1968年)

戦後、ドイツ人の航空機での飛行は禁止されていたが、グライダー飛行はまもなく許可され、スペインでのグライディング世界大会で3位になったのを手始めに、女性の高度飛行記録(6848 m)を含む数々の世界記録を更新し続け、1955年にはドイツチャンピオンに。

1959年ネルー首相にインドへ、1961年ジョン・F・ケネディ大統領にアメリカへ招かれ、黒人初のグライダー飛行学校を作ったガーナ1962年から1969年にかけて居住した。また、1970年代を通して、アパラチア山脈間での 715km(1976年)、802km(1979年)飛行記録を含む、様々なグライダー部門における女性世界記録を塗り替えた。同時期、第1回世界ヘリコプター大会女性部門で1位にもなった[20]

1970年代からライチュを撮っていたアメリカの写真記者から大戦中での痛恨事をインタビューされた際には、戦時中の国家社会主義ナチズム)への傾倒を恥じていないこと、未だにヒトラーから授与された鉄十字章を身に付けていることを述べていた[21]

1979年フランクフルトにて心筋梗塞で死去。67歳没。生涯独身だった。

 

参照文献

  • 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ、戦史刊行会訳、白金書房、1975年)
  • Beevor, Antony (2002), 『Berlin: The Downfall 1945』, Viking, Penguin Books ISBN 0670886955
  • Ziemke, Earl F. (1969), 『Battle for Berlin End of the Third Reich Ballantine's Illustrated History of World War II (Battle Book #6)』, Ballantine Books

関連文献

  • 『Helden der Wehrmacht - Unsterbliche deutsche Soldaten』 (ドイツ語). München, Germany: FZ-Verlag GmbH, 2004. ISBN 3-924309-53-1.

関連項目

脚注

  1. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ、戦史刊行会訳、白金書房、1975年) P13
  2. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P57
  3. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P238
  4. ^ a b 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P189 ~ P198、P206
  5. ^ もう一人の女性二級鉄十字章受章者は、第一次大戦時の看護婦・ヨハンナ・クリューゲ。
  6. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P256 ~ P258、P137
  7. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P291
  8. ^ この“自己犠牲攻撃”の構想自体は日本の“神風攻撃隊”出現前のものであり、またライチュ自身も、この神風攻撃のことは当時知る由もなかったが、戦局をドイツ有利に転回させるためには敵の中枢部に突入することが必須だと認識していたことを記している。 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P285
  9. ^ オットー・スコルツェニー自身もそれまで、戦局をドイツ有利に転回させるため、有人魚雷などで海軍とも接触を持っていた。 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P294
  10. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P292
  11. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P313
  12. ^ Page 1454, William L. Shirer, The Rise And Fall of The Third Reich
  13. ^ 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P319
  14. ^ Page 342, Beevor, Antony (2002), Berlin: The Downfall 1945, Viking, Penguin Books
  15. ^ Page 118, Ziemke, Earl F. (1969), Battle for Berlin End of the Third Reich Ballantine's Illustrated History of World War II (Battle Book #6), Ballantine Books
  16. ^ 搬送時の酷薄な扱いや狭く薄汚い独居房に入れられたことなども絡め、1938年時点に初めて知ったアメリカ人の陽気さ開放さとは逆の憎悪を、この時に味わったことや、勿論ドイツ人が外国に対してそうであったように、アメリカ人も宣伝によってドイツに対する偏った観念のなかにあったことなどを記している。 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P324
  17. ^ Page 234, Dollinger, Hans, The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Library of Congress Catalogue Card Number 67-27047
  18. ^ この一家心中についてライチュ自身は、医者だった父は、それまでソ連占領地への往診に行った際に、現地人らが遭っていた苛酷な実情を知っていたためだとする。 『私は大空に生きる - 鉄十字章に輝く女性パイロットの手記』(ハンナ・ライチュ) P324
  19. ^ Piszkiewicz, Dennis (1997), From Nazi Test Pilot to Hitler's Bunker: The Fantastic Flights of Hanna Reitsch, Praeger Publishers ISBN 978-0275954567
  20. ^ wwiihistorymagazine.com, Profiles, May 2005 英語版では2008年5月6日に引用。
  21. ^ http://www.editinternational.com/read.php?id=47a883d14ce11

外部リンク