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== 国会でのオール与党 ==
== 国会でのオール与党 ==
なお、80年代以降、国会においても[[国会対策委員長]]会談が共産党を排除して行われ、法案採決や日程について他の全ての政党の間で調整が図られ、「表で対立、裏では協調」という[[国対政治]]が進められていた。共産党を除いた全党が賛成に回る法案も多数存在する。そのため国会についてもオール与党であると共産党は指摘している。
なお、80年代以降、国会においても[[国会対策委員長]]会談が共産党を排除して行われ、法案採決や日程について他の全ての政党の間で調整が図られ、「表で対立、裏では協調」という[[国対政治]]が進められていた。共産党を除いた全党が賛成に回る法案も多数存在する。そのため国会についてもオール与党であると共産党は指摘している。

2007年には、[[渡辺恒雄]]の呼びかけにより、自民党総裁[[福田康夫]]と民主党代表小沢一郎との間で[[大連立]]に向けて[[党首会談]]が行なわれ、国会でのオール与党実現が検討された。なお、この大連立の話は、民主党を中心とする連立政権が参議院で過半数割れした2010年にも出た。

2011年11月現在の日本の政治体制が「オール与党」に近い[[翼賛]]体制になりつつあるという指摘が専門家からなされている。[[神戸大学]]教授[[塚原東吾]]によると、[[東日本大震災]]以降、震災を利用した[[新自由主義]]体制の急進的な推進、災害救援を通じた[[自衛隊]]へのイメージ向上を利用した日本の軍事化(2011年11月には離島防衛を想定した自衛隊による大規模な軍事演習が[[九州]]で行われた)がなされているとされ、また、民主党と自民党との明確な対立軸が無くなりつつあるため、自民党は民主党に擦り寄ってゆき、結果として民主・自民・公明の三党の談合による政策決定が今後も引き続き行われ、「復興」の名の下に日本に深刻な影響を与えるという<ref>[[人民新聞]] 2011年11月15日号 3面</ref>。事実、民主党は経済格差・[[ワーキングプア]]を社会問題化させた製造業派遣・[[日雇い派遣]]を禁止することをマニフェストに明記していたが、結局三党合意に基づきしなかった。[[環太平洋連携協定|TPP]]についても、自民党内では賛否が別れ混乱、「拙速な結論を控えよ」という自民党執行部の方針を[[小泉進次郎]](彼はTPP早期締結に賛成している)が公然と批判するなど、党内がまとまっていない。自民党の支持率そのものも低調なままであり<ref>[[時事通信]]社の2011年11月の世論調査による</ref>、今後の日本の政局は、中小政党を蚊帳の外に置いた「震災復興」の名の下の「オール与党」もしくは「[[大政翼賛会]]」化が進むのではないかという懸念が出ている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2012年4月8日 (日) 13:34時点における版

オール与党(オールよとう)とは、日本の、特に地方自治において、日本共産党以外の全ての国政政党が与党化する現象のこと。

地方自治体でのオール与党

1980年社公合意以降、自民社会公明民社など日本共産党を除く全ての政党が地方自治体首長選挙において同一候補を推薦・支持する体制が常態化し、これは「オール与党・総与党体制」としてしばしば批判の対象となっている。国政政党野党が国政政党与党候補を支持することを「相乗り」と表現されることが一般的である。稀に、国政政党保守与党が国政政党革新野党候補を支持することもある。例として、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、世田谷区の大場啓二などでは日本共産党が与党相乗り候補に相乗りして支援した。社会党や民社党が衰退し、民主党が第一野党になってからも続いていた。また、陸前高田市など一部の地方自治体では、日本共産党と保守系勢力が共闘し、民主党・公明党・社民党などの勢力と対立しているケースもある。

2006年4月に小沢一郎民主党代表に就任してから政令指定都市・都道府県の首長選挙で原則相乗り禁止の方針を打ち出した。このことによりオール与党体制は改善するとの見方もあった。しかし実際には、香川愛媛和歌山福井三重奈良鳥取島根徳島など、殆どの自治体で自公社と同一の候補を支援したり、「自主投票」として候補者を立てられないなど、方針は十分に実行されていない(ただし、三重は前回独自候補として当選させた候補に、与党の側から乗って来たものである。しかし、徳島では前回民主などの推す現職が与党候補に敗れ、その後対立候補と協調路線を取った)。また、(政令指定都市以外の)市区町村については現在も相乗りが容認されている。対立候補を擁立できない原因は、現行の選挙制度では大きなスキャンダルの無い現職候補に勝つのが難しいことが挙げられる。政策面でも民主党と自公との対立は余り無く、採決や請願採択などの行動においてもほぼ同じなため、共産党など他の野党との共闘は進んでいない。

2007年の愛知県知事選では民主は独自候補を擁立したものの、連合と共に共産の協力をみずから拒絶。共産に独自候補を擁立させた結果、僅差で与党候補に敗れた。一方、東京都では民主の支援する(公式な推薦・支持はしていない)候補への一本化を共産に期待する意見が見られたが、共産は候補者との路線の違いや、民主がオール与党体制に加わっていることなどを理由に、民主支援の候補を自民公明支援の候補と同列に批判した。結果として与党が事実上支援する現職が大勝した。このように野党間の政策・心理的開きが大きく、選挙によって各党の思惑が衝突するため、共産以外の野党にとってはオール与党体制に安住しやすい構造となっている。また、共産にとっても、オール与党批判によって一定の支持を確保できる現状があるため、ここでも他の野党との協力に抵抗が生まれる。 一方で2007年11月の大阪市長選では民主党等が推す新人候補が自民党・公明党推薦の現職候補を大差で破るように政権を狙う民主党側は自民・公明両党と距離を取る姿勢も示しているが、これに対して自民・公明両党は民主党が推薦した候補に後から推薦する方法(「京都方式」)を2008年京都市長選で採用しており(大阪府知事選でも同様の方法が模索されたが結果的に両党は民主推薦の熊谷貞俊ではなく府連レベルで橋下徹を推薦・支持し大差で当選させる)、相乗りを温存しようとする姿勢は自民・公明両党には根強い。

2000年代に行われた東京都知事選挙では、東京都の民主党は石原都知事(自称「無党派」であるが自民党・公明党が支援している)の与党に準じる存在ではあるが独自候補を擁立するという構図となっており、土屋敬之など石原都知事に近い立場の民主党の議員が党が支援した候補ではなく石原都知事を支援するという姿が見られた。また、この時の東京都の民主党は選挙が終わると事実上の与党に復帰している[1]

新党日本自由連合など小政党は、地方自治体レベルの選挙では推薦・支持する候補を決定しない場合も多いが、野党候補が立候補していても自公推薦候補を支援することが多い。自由連合は、2006年に德田毅代表が自民入党の上自民の「友好団体」となることを表明し、名実共に与党化した。ただし、新社会党は、地方自治体の選挙では日本共産党が推薦・支持する候補を支援することが多い。

例外として、沖縄では与野党相乗りが少なく、地域政党の沖縄社会大衆党が野党共闘の中心になっている。そのため、オール与党体制とはなっていない。また、特殊な事例ではあるが、滋賀で2006年に行われた県知事選挙では社会民主党支持の嘉田由紀子が自民党・公明党・民主党が推薦する候補者を破った。

地方議会で共産党を排除する談合体質が常態化したこと、共産党以外の政党が自公の政策にほぼ賛同するようになった結果、議会のチェック機能を果たせなくなり、財政赤字・官製談合などの諸問題を放置することが多くなったと言われている。また、事前に選挙結果の予想がつくことが多いために住民の選挙に対する関心が低下し、相乗りが行われた都道府県知事選挙や市町村長選挙の投票率は、他の選挙と同時に行われた場合などを除いて低くなっている。

「相乗り」と「共闘」について

いずれも、特定の主義主張を超えた選挙などの協力に用いられるが、ニュアンスは異なる。

「相乗り」は「オール与党」である場合も含め、自民党など保守政党が中心になるケースが多い。

一方、「共闘」は統一戦線であり、革新政党もしくは左翼政党が中心になったケースで用いられる。また、「相乗り」が基本的に選挙のみの協力を指すのに対し、「共闘」は選挙以外での協力を含めるケースが多い。

国会でのオール与党

なお、80年代以降、国会においても国会対策委員長会談が共産党を排除して行われ、法案採決や日程について他の全ての政党の間で調整が図られ、「表で対立、裏では協調」という国対政治が進められていた。共産党を除いた全党が賛成に回る法案も多数存在する。そのため国会についてもオール与党であると共産党は指摘している。

脚注

関連項目