「足利義氏 (古河公方)」の版間の差分

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'''足利 義氏'''(あしかが よしうじ)は、第5代[[古河公方]](在位:[[1552年]] - [[1583年]])。同名の[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]から数えて14代目の子孫に当たる。
'''足利 義氏'''(あしかが よしうじ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の人物で、第5代[[古河公方]](在位:[[1552年]] - [[1583年]])。同名の[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]から数えて14代目の子孫に当たる。父は第4代古河公方の[[足利晴氏]]、母は[[北条氏綱]]の娘の[[芳春院 (曖昧さ回避)|芳春院]]。正室は[[北条氏康]]の娘の[[浄光院殿]]。異母兄弟に[[足利藤氏]]や[[足利藤政]]がいる。


※ 日付は、[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は、[[ユリウス暦]]とする。
<small>※ 日付は、[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は、[[ユリウス暦]]とする。</small>


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])1月15日、[[足利晴氏]]の次男として生まれる。幼名は'''梅千代王丸'''。父が[[北条氏康]]と戦って敗れて幽閉されると、[[古河公方]]となったが、就任式[[古河城|古河御所]]ではなく[[北条氏]]の一支城であった[[葛西城]](現在の[[東京都]][[葛飾区]][[青戸]])で行われた<ref>「千葉県の歴史 通史編 中世」(2007年刊、千葉県史料研究財団編・千葉県発行)</ref>からでも明らかなように所詮は北条氏の傀儡に過ぎず、その地位も名目上のものでしかなかった。
[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])1月15日、[[足利晴氏]]の次男(異説あり)として生まれる 。幼名は'''梅千代王丸'''。父が[[北条氏康]]と戦って敗れて幽閉されると、[[後北条氏|北条氏]]からの強い意向で[[古河公方]]となったが、就任式[[古河城|古河御所]]ではなく[[北条氏]]の一支城であった[[葛西城]](現在の[[東京都]][[葛飾区]][[青戸]])で行われた<ref>「千葉県の歴史 通史編 中世」(2007年刊、千葉県史料研究財団編・千葉県発行)</ref>。これらのことから北条氏の傀儡に過ぎず、当時の情勢と相まって、その地位も名目上のものでしかなかったとされる


また、[[関東管領]]であった[[上杉謙信]]も晴氏の長男[[足利藤氏]]が正統な古河公方であるとし、次男で異母弟であった義氏の継承を認めなかった。このため、義氏は氏康から[[小田原]]や[[鎌倉]]葛西ヶ谷など古河と関係ない地たらい回しされと言われている。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。
また、のちに[[関東管領]]となった[[上杉謙信]]も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、次男で異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、[[上杉氏]]はじとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は[[小田原]]や[[鎌倉]]葛西ヶ谷など古河と関係ない地を転々とすることなった。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。


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[[元亀]]元年([[1570年]])ごろ、[[越相同盟]]の締結条件として上杉謙信からも正統性と継承を認められた。ようやく古河公方として古河に戻ることになったが、それは氏康の子[[北条氏照]]を後見人にするという条件のもとであり、傀儡であることに代わりはなかった。


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[[天正]]11年([[1583年]])1月21日、死去、[[享年]]43(満42歳没)。法号は'''長山善公香雲院'''。嫡男の[[足利梅千代王丸|梅千代王丸]]が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である[[足利氏姫|氏姫]]を[[古河城]]主として擁立した。


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名族の血筋が断絶することを惜しんだ[[豊臣秀吉]]の計らいで、氏姫は[[小弓公方]]であった[[足利義明]]の孫[[足利国朝]]と結婚し、[[喜連川氏]]を興すこととなった。


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2010年12月11日 (土) 04:05時点における版

 
足利義氏
時代 戦国時代
生誕 天文10年1月15日1541年2月10日
死没 天正11年1月21日1583年2月13日
改名 梅千代王丸、義氏
戒名 長山善公香雲院
墓所 徳源院跡茨城県古河市
官位 従五位下左馬頭従四位下右兵衛佐
氏族 足利氏
父母 父:足利晴氏、母:芳春院北条氏綱女)
兄弟 藤氏義氏藤政輝氏家国
正室:浄光院殿(北条氏康女)
氏姫梅千代王丸、娘
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足利 義氏(あしかが よしうじ)は、戦国時代の人物で、第5代古河公方(在位:1552年 - 1583年)。同名の足利義氏から数えて14代目の子孫に当たる。父は第4代古河公方の足利晴氏、母は北条氏綱の娘の芳春院。正室は北条氏康の娘の浄光院殿。異母兄弟に足利藤氏足利藤政がいる。

※ 日付は、和暦による旧暦西暦表記の部分は、ユリウス暦とする。

生涯

天文10年(1541年)1月15日、足利晴氏の次男(異説あり)として生まれる 。幼名は梅千代王丸。父が北条氏康と戦って敗れて幽閉されると、北条氏からの強い意向で古河公方となったが、就任式は古河御所ではなく北条氏の一支城であった葛西城(現在の東京都葛飾区青戸)で行われた[1]。これらのことから北条氏の傀儡に過ぎず、当時の情勢と相まって、その地位も名目上のものでしかなかったとされる。

また、のちに関東管領となった上杉謙信も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、次男で異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、上杉氏はじめとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は小田原鎌倉葛西ヶ谷など古河と関係ない地を転々とすることになった。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。

元亀元年(1570年)ごろ、越相同盟の締結条件として上杉謙信からも正統性と継承を認められた。ようやく古河公方として古河に戻ることになったが、それは氏康の子北条氏照を後見人にするという条件のもとであり、傀儡であることに代わりはなかった。

天正11年(1583年)1月21日、死去、享年43(満42歳没)。法号は長山善公香雲院。嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である氏姫古河城主として擁立した。

名族の血筋が断絶することを惜しんだ豊臣秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫足利国朝と結婚し、喜連川氏を興すこととなった。

脚注

  1. ^ 「千葉県の歴史 通史編 中世」(2007年刊、千葉県史料研究財団編・千葉県発行)
先代
足利晴氏
古河公方
第5代:1552 - 1583
次代
足利氏姫