「フェリペ2世 (スペイン王)」の版間の差分

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2010年11月12日 (金) 13:27時点における版

フェリペ2世
Felipe II
スペイン王
(カスティーリャ王、レオン王、アラゴン王、……)
在位 1556年1月16日 - 1598年9月13日
別号 シチリア王
ポルトガル王(1580年 - 1598年)
ナポリ王
スペイン領ネーデルラント統治者
ミラノ公
イングランド王

出生 1527年5月21日
スペインの旗 スペインバリャドリッド
死去 1598年9月13日(71歳没)
スペインの旗 スペインマドリード
配偶者 マリア・マヌエラ・デ・ポルトガル
  メアリー1世 (イングランド女王)
  エリザベート・ド・ヴァロワ
  アナ・デ・アウストリア
子女 ドン・カルロス
イサベル・クララ・エウヘニア
カタリーナ・ミカエラ
フェリペ3世
家名 ハプスブルク家
王朝 スペイン・ハプスブルク朝
父親 カルロス1世
母親 イザベラ・フォン・ポルトゥガル
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フェリペ2世Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家カスティーリャ王国アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。1580年からはフィリペ1世Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。スペイン帝国最盛期の国王で、絶対主義の代表的君主の1人とされている。

生涯

出生から即位まで

1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベル(イザベラ)との間に生まれた。スペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出された父カルロス1世は当時のヨーロッパで最大の勢力をもち、ヨーロッパ以外の広大な領土とあわせて、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。なお、現在のフィリピン共和国フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年スペイン人コンキスタドールによってラス・フィリピナス諸島と命名されたことに起源を発するが、これは、皇太子時代のフェリペの名に由来する。

フェリペは1556年1月16日、父の退位によりオーストリア大公国を除く領土を受けつぎ、スペイン王フェリペ2世として即位した。28歳であった。既に1526年の段階でオーストリア大公となっていた叔父フェルディナントは、この時に神聖ローマ皇帝位を継承した。こうしてハプスブルク家は、スペイン系ハプスブルク家(アブスブルゴ家)の治めるスペイン・ハプスブルク朝オーストリア系ハプスブルク家の治めるハプスブルク君主国に分かれた。

バンカロータ

フェリペ2世は、1556年の即位と同時に膨大な借金も受け継ぎ、翌年の1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった。彼の在位中にこれを含め4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺える。しかしイタリア戦争においては1559年カトー・カンブレジ条約フランスイタリアに対する要求を放棄させた。

「書類王」フェリペ

フェリペ2世はアラゴン王国にあった副王制を用いて帝国全体を統治した。各地に副王を置き、中央集権体制を整えたのである。1561年、国土の中央に位置するという理由でバリャドリッドからマドリードに宮廷を遷し、スペインの「首都」が初めて確定する。後にマドリード郊外エル・エスコリアルを作り(1563年着工、1584年完成)、この宮殿の中から広大な領土への命令を発した。前王とは違ってほとんど宮殿に籠って政務に専念したため、「書類王」ともいわれる。

彼が作り上げた書類決裁システムは、当時のヨーロッパでは先進的といってよいものであったが、彼の死後にスペイン王国でこのシステムを機能させられた為政者はオリバーレス公伯爵くらいであったとも言われる。

カトリックの盟主フェリペ

「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、フェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想とした。本人も熱心なカトリック教徒であったとされる。本家オーストリアのハプスブルク家の皇帝がプロテスタント勢力と迎合し、その信仰を許可(アウクスブルクの和議)した事に対し不満を持ち、カトリックの盟主になる事を自認したと言えよう。1559年禁書目録が公布され、指定された大学以外の大学でスペイン人が学ぶことも、一時的にではあるが禁止された。またフランスのユグノー戦争にも介入し、旧教同盟を支援した。

このような異端不寛容的政策に対して、1568年にはネーデルラントの反乱が、アルプハラース山地でモリスコ(キリスト教に改宗したモーロ人)の反乱が起こった。それでもカトリック盟主として1571年レパントの海戦を率い、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアをヨーロッパ連合艦隊の総司令官に任命してオスマン帝国海軍に勝利し、1579年にネーデルラント南部諸州を八十年戦争から離脱させ、1580年にはポルトガルを併合してスペイン最大の版図を獲得した。

「太陽の沈まぬ帝国」と無敵艦隊の敗北

1598年のフェリペ2世の帝国

1580年のポルトガル併合によって、フェリペ2世はインディアス(新大陸)、フィリピンネーデルラントミラノ公国フランシュ=コンテ(以上カスティーリャ王国領)、サルデーニャ島シチリア島ナポリ王国(以上アラゴン連合王国領)、ブラジルアフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、マラッカボルネオ島(以上ポルトガル王国領)という広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えた。1584年には日本から来た天正遣欧少年使節を歓待している。

しかし、1581年にネーデルラント北部諸州はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した(これをもってネーデルラント(オランダ)連邦共和国の独立とする見方もある)。1588年、フェリペ2世は北部諸州を支援しているイングランドをたたくために無敵艦隊を派遣したが、アルマダの海戦で敗北した。この頃からスペインに衰退の兆候が現れ始め、貴族位や領主権などの売却や、1590年にはミリョネス新税を導入している。この頃にはスペイン領アメリカからの貴金属の着荷も最大になったが、軍事費増大による国庫の破綻は防げず、1596年に大規模なバンカロータを行わざるを得なかった。さらに同年から約3年にわたってペストが流行する。スペイン帝国に盛期をもたらしたフェリペ2世が死の床につく頃には、「スペインの世紀」は終わろうとしていた。

結婚生活とフェリペ2世の家族

最初の妻マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル
2番目の妻は「ブラッディ・メアリ」と呼ばれたイングランド女王メアリー1世
最後の妻アナ・デ・アウストリア

フェリペ2世は皇太子時代の1543年、ポルトガル王女マリア・マヌエラ(1527年10月15日 - 1545年7月12日)と結婚した。2人は同い年であった。マリア・マヌエラの父はイザベラの兄ジョアン3世、母はカール5世の妹カタリナであり、父方でも母方でもフェリペの従姉妹に当たる。1545年に長男ドン・カルロスをもうけるが、同年に彼女は死去した。

1554年イングランド王国の女王メアリー1世1516年2月18日 - 1558年11月17日)と結婚した。メアリー1世は父カール5世の従妹に当たる。スペイン王家からすればフランスのブルボン家との対抗上、メアリー1世からすれば国内での親カトリック政策の後ろ盾として、互いを求めた政略結婚であったが、11歳年上のメアリー1世とは性格が合わず、1556年にフェリペは即位のためスペインに帰国、1年半後に3ヶ月ほどロンドンを再訪したのみで別居状態となった。既にこの当時における高齢出産の年齢に達していたメアリー1世は婦人科系の病に冒されていた模様で、子をもうけないまま1558年に死去した。

1559年、フランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワ(1545年4月2日 - 1568年10月3日)と結婚した。エリザベートの母はカトリーヌ・ド・メディシスであった。この結婚はスペイン・フランス両国で結ばれたカトー・カンブレジ条約によるものであり、エリザベートはもともとフェリペ2世の一人息子ドン・カルロスの婚約者であった。エリザベートは、イサベル・クララ・エウヘニアカタリーナ・ミカエラの2女をもうけたが、彼女も1568年に死去した。なお、この年にはフェリペ2世と最初の妻マリアとの子ドン・カルロスも死去している。

1568年、オーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリア(1549年11月1日 - 1580年10月26日)と結婚した。彼女のドイツ語での呼称はアンナ・フォン・エスターライヒである。アンナの父、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世はフェリペ2世と同年生まれの従弟であり、母マリアはフェリペ2世の妹であるという関係から、2人は伯父の結婚となるため、ローマ教皇ピウス5世が当初反対した経緯がある。彼女とは4人の息子と1女(マリア)をもうけたが、フェリペ以外のいずれの子供も夭折した。

残された子供はイサベル、カタリーナ、フェリペ(後のフェリペ3世)だけであり、家庭的には恵まれない人物であった。

関連項目

先代
カルロス1世
スペイン王
シチリア王
1556年 - 1598年
次代
フェリペ3世
先代
カルロス1世
ナポリ王
1554年 - 1598年
次代
フェリペ3世
先代
フランチェスコ2世・スフォルツァ
ミラノ公
1540年 - 1598年
次代
フェリペ3世
先代
エンリケ1世
ポルトガル王
1580年 - 1598年
次代
フィリペ2世
先代
カルロス1世
アストゥリアス公
1528年 - 1556年
次代
カルロス