カルロス (アストゥリアス公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドン・カルロス・デ・アウストリア
Don Carlos de Austria
アストゥリアス公
晩年のドン・カルロス・デ・アウストリア
在位 1556年 - 1568年

称号 ジローナ公、ビアナ公
スペイン王子、ポルトガル王子
出生 (1545-07-08) 1545年7月8日
スペイン帝国バリャドリッド
死去 (1568-07-24) 1568年7月24日(23歳没)
スペイン帝国マドリード
埋葬 スペイン帝国エル・エスコリアル修道院
家名 スペイン・ハプスブルク家
父親 スペインフェリペ2世
母親 マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル
テンプレートを表示

ドン・カルロス・デ・アウストリア(Don Carlos de Austria, 1545年7月8日 - 1568年7月24日)は、スペインの王太子、アストゥリアス公。父はスペイン王フェリペ2世、母はポルトガル王女マリア・マヌエラでその長男。フェリペ3世の異母兄にあたる。

なお、スペイン・ハプスブルク家スイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域からドイツ南西部のバーデン地方を発祥とすることから、ドイツ語カール・フォン・アストゥリエン(Karl von Asturien)と表記されることもある。

概要[編集]

当時のボヘミア大使の手紙によると「カルロスは肩の高さが違い、右足が左足より長く、頭が大きすぎる。胸はくぼみ、背中にこぶがある。まるで子供のように愚かしい質問ばかりする。高尚なことに興味を示したことはなく、食べることにしか関心がない。際限なく食べ続けているので、よくいろいろな病気にかかり、顔色はひどく悪く、長生きはできないだろう」とある。[要出典]

父に反逆してネーデルランドに行こうとして逮捕監禁され、23歳で牢死した。

フランス国王アンリ2世の娘エリザベート・ド・ヴァロワと婚約していたが、父王フェリペ2世がエリザベートを3人目の王妃とした。カルロスの死の数か月後に、エリザベートは亡くなっている。

八十年戦争中のネーデルラントへの逃亡など、歴史的には実証されていないが、シラーの戯曲『ドン・カルロス』やヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』で、エリザベートへの悲恋というフィクションが作り上げられ、悲劇的人物として知られる。

若きドン・カルロス・デ・アウストリア

参考文献[編集]

  • ランケ『ドン・カルロス』("Don Carlos", 1829年)
  • L.P.Gachard "Don Carlos et Philippe II"(1863年)
  • Cesare Giardini "Don Carlos. Infant von Spanien"(1994年)

アストゥリアス公カルロスを題材とした作品[編集]

関連項目[編集]

先代
フェリペ2世
アストゥリアス公
ジローナ公
1556年 - 1568年
次代
フェルナンド