「19世紀の哲学」の版間の差分
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[[ファイル:Pragmatists.jpg|thumb|プラグマティズムの思想家たち。左上:パース、右上:ジェームズ、左下:デューイ、右下:社会心理学者のミード]] |
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[[プラグマティズム]]は、アメリカ合衆国で[[シカゴ大学]]を中心に展開した。1870年代初めに[[チャールズ・サンダース・パース]]が「形而上学クラブ」と呼ばれた若手哲学者サークルで発表したことに始まる。 |
[[プラグマティズム]]は、アメリカ合衆国で[[シカゴ大学]]を中心に展開した。1870年代初めに[[チャールズ・サンダース・パース]]が「形而上学クラブ」と呼ばれた若手哲学者サークルで発表したことに始まる。 |
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2010年11月8日 (月) 04:33時点における版
19世紀の哲学(じゅうきゅうせいきのてつがく)は、哲学史的に考察した場合、19世紀はデカルトやフランシス・ベーコンに始まる近代哲学がドイツ観念論哲学において一つの臨界点に達したと同時に、マルクス主義、功利主義、実存主義、精神分析学、プラグマティズムなどが誕生・発達し、現代哲学の原点となった時期である。その一方で「カントに戻れ」をスローガンとして掲げる新カント派もドイツのアカデミズム哲学では一大潮流となる。
これらの思想的潮流の社会的背景としてはフランス革命とその後のナポレオン戦争や産業革命などにより、民主主義のイデオロギーが広く普及したことや、資本主義の勃興と帝国主義の拡大による様々な矛盾(貧困、過酷な労働、植民地支配、共同体の崩壊など)により、諸個人の関係や社会構造などが大きく変化したことが挙げられる。
学問的背景として、諸科学の発達に伴う学問分野の分散化が加速したことやキリスト教教義やニュートン力学(付け加えればヘーゲル哲学の体系)などの「ドグマ」に対する批判的検討の潮流が影響を及ぼしていることも看過することはできない。
また、日本においても幕末の動乱から明治維新という大きな変革の時期にあり、思想史的にもこの時期に大転換を遂げる。
なお、本稿ではあくまで思想史(または社会史)的な観点からの解説に止める。それぞれの思想の内容に関してはそれぞれの項目を参照のこと。
ドイツ観念論哲学
カントの批判哲学およびそれに対するヤコービの批判に刺激され、神または絶対者と呼ばれる観念的原理の自己展開として世界および人間を捉えることをその特徴とする。哲学者フィヒテ、シェリング、ヘーゲルのほかラインホルト、ヘルダーリン、ゾルガー、神学者フリードリヒ・シュライアマハーがドイツ観念論の主要な論者とみなされる。ドイツ古典主義哲学やドイツ理想主義哲学とも呼ばれる。(これらのような呼称にした場合、該当する思想家が若干ことなることがある)マルクス主義を国家理念の嚆矢とした国々ではドイツ市民的観念論 (der deutsch-bürgerliche Idealismus) と呼ばれたが現在この呼称は廃れている。他に、ゲーテやシュレーゲル兄弟などの文学界との交流もこの時期は盛んに行われていた。詳しくは、ドイツ観念論の項を参照のこと。
マルクス主義の成立
ヘーゲルの没後、ドイツ観念論は様々な要因から急速に衰えていき、ヘーゲル左派、ルートヴィヒ・フォイエルバッハという過渡期を経て、マルクスとエンゲルスが現れた。
共産主義の思想そのものは古くプラトンから見られ、社会主義もサン・シモンやフーリエといった、いわゆる空想的社会主義の思想として18世紀末から登場していた。
マルクス主義が西洋の伝統的共産主義や空想的社会主義と一線を画した点は古典派経済学に基づく労働価値説の導入やヘーゲル哲学の枠組みを唯物論的に「転倒」させたことによる。
功利主義
最初に産業革命に成功し、「世界の工場」として発達したイギリスでは早くから諸個人間の利益、または個人と社会の利益とをいかに調和させるかが問題となっていた。この問題を解決するために生まれた道徳理論が必要となった。そこで発生したテーゼこそ「最大多数の最大幸福」であり、それを実現するために生まれた哲学が功利主義である。
なお、現代思想において功利主義者として知られるのはヘアやピーター・シンガーらである。
実存主義――キルケゴールとニーチェ
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精神分析
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プラグマティズム
プラグマティズムは、アメリカ合衆国でシカゴ大学を中心に展開した。1870年代初めにチャールズ・サンダース・パースが「形而上学クラブ」と呼ばれた若手哲学者サークルで発表したことに始まる。
プラグマティズムはそれ自身でも、ウィリアム・ジェームズ、ジョン・デューイらによって発展してきたが、他方では分析哲学の源流でもある。そのことはピアスが記号論の創始者の一人としても評価されていることやモリス、クワインといった分析哲学者たちが「ネオ・プラグマティスト」とも呼ばれていることからも、うかがい知ることができる。
日本の思想
国学
18世紀に本居宣長によって完成された国学をより実践的な学風へと転換した平田篤胤や藤田幽谷・東湖親子らによって当初の儒学的傾向から強烈な尊王思想へとシフトした水戸学などは幕末の尊皇攘夷思想の形成に一役買った。
薩英戦争や馬関戦争から攘夷の非現実性が明らかになった一方で、尊王思想はより一層強化され、国学の地位は日本における民族主義(主に戦前のそれ)、あるいは教育勅語、国体思想、皇国史観などの基礎として存在し続けた。
西洋哲学との出会い
一方で、開国によって、徳川幕府や各藩(明治維新後は政府)から、多数の留学生が派遣された。彼らの多くは外国語や西洋の科学・技術や政治・経済のシステムなどを主に吸収したが、一部は西洋哲学に出会い、帰国後はその研究や発表、言論活動などで活躍する。その中でも最も有名かつ影響力が強かったのが福沢諭吉と中江兆民である。
福沢は主にジョン・スチュアート・ミルの功利主義の影響を強く受けていたといわれ、中江はジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』(中江訳では『民約解論』)を翻訳したことで知られる。
また、Philosophyを「哲学」と訳した西周、西洋哲学(主にドイツ観念論)と仏教との一致を目指した井上円了などがこの時代のキーパーソンとして挙げられる。