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=== 「特攻生みの親」の解釈 ===
=== 「特攻生みの親」の解釈 ===
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大西が特攻の発案者でないことを示す状況証拠としては以下が挙げられる。
大西が特攻の発案者でないことを示す状況証拠としては以下が挙げられる。
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*[[1944年]][[7月21日]]、[[大本営]]([[軍令部]])は「大海指第431号」によって、後日、「[[回天]]」、「[[桜花]]」、「[[震洋]]」として量産される[[特攻兵器]]による奇襲攻撃の計画を実行に移したが、当時大西中将は[[軍需省]]航空兵器総務局長であった。
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*「大海機密第261917番電」は、「神風隊攻撃の発表の際は、戦意高揚のため、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっているが、これも、大西中将のフィリピン到着前の[[1944年]][[10月13日]]に[[源田実]]中佐らの起案であり、着任後、特攻隊戦果の確認できた[[10月26日]]発信であった。
*「大海機密第261917番電」は、「神風隊攻撃の発表の際は、戦意高揚のため、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっているが、これも、大西中将のフィリピン到着前の[[1944年]][[10月13日]]に[[源田実]]中佐らの起案であり、着任後、特攻隊戦果の確認できた[[10月26日]]発信であった。
*[[関行男|関]]大尉らが乗った特攻機(零戦)は、機上で爆弾の信管が解除できるように改造されている{{要出典}}。当時の慣習として軍令部の許可がなければ絶対に兵器改修を行ってはならなかったこと{{要出典}}と、大西着任から特攻隊初出撃まで1週間もなかった(台湾沖航空戦の終了が[[10月17日]]、この直後に大西が着任し神風特攻隊初出撃(会敵せず帰還)は[[10月21日]])。
*[[関行男|関]]大尉らが乗った特攻機(零戦)は、機上で爆弾の信管が解除できるように改造されている{{要出典|date=2008年9月}}。当時の慣習として軍令部の許可がなければ絶対に兵器改修を行ってはならなかったこと{{要出典|date=2008年9月}}と、大西着任から特攻隊初出撃まで1週間もなかった(台湾沖航空戦の終了が[[10月17日]]、この直後に大西が着任し神風特攻隊初出撃(会敵せず帰還)は[[10月21日]])。


このように、特攻の発案者が大西ではないことは状況証拠から見て明らかだが、今なお大西を特攻戦術の発案者とされることが多い。しかし、大西はパイロット育成には時間と金と労力がかかることをよく理解しており、特攻作戦のために貴重なパイロットを損失することに対して否定的であり、特攻作戦採用に際しては初期の段階では否定していた。
このように、特攻の発案者が大西ではないことは状況証拠から見て明らかだが、今なお大西を特攻戦術の発案者とされることが多い。しかし、大西はパイロット育成には時間と金と労力がかかることをよく理解しており、特攻作戦のために貴重なパイロットを損失することに対して否定的であり、特攻作戦採用に際しては初期の段階では否定していた。
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当時の戦局や大西の発言記録等では、彼が指揮する[[第一航空艦隊]]は当時突入してくる[[栗田艦隊|第二艦隊第一遊撃部隊]](栗田艦隊)のためにフィリピンの制空権を奪う必要があったが、彼の着任直前に起きた[[台湾沖航空戦]]で大打撃を受けた第一航空艦隊に残されていた可動機は、わずかに使い古しの零戦約30機程度であった。
当時の戦局や大西の発言記録等では、彼が指揮する[[第一航空艦隊]]は当時突入してくる[[栗田艦隊|第二艦隊第一遊撃部隊]](栗田艦隊)のためにフィリピンの制空権を奪う必要があったが、彼の着任直前に起きた[[台湾沖航空戦]]で大打撃を受けた第一航空艦隊に残されていた可動機は、わずかに使い古しの零戦約30機程度であった。


また、彼を知る複数の関係者は戦後、大西について「もし(特攻作戦を行って)戦争に勝っていたとしても彼は自決していただろう」という証言をしている{{要出典}}。
また、彼を知る複数の関係者は戦後、大西について「もし(特攻作戦を行って)戦争に勝っていたとしても彼は自決していただろう」という証言をしている{{要出典|date=2008年9月}}。


== 終戦と自決 そして墓所==
== 終戦と自決 そして墓所==

2010年10月25日 (月) 17:07時点における版

大西 瀧治郎
1891年6月2日 - 1945年8月16日
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海軍中将 大西瀧治郎
生誕 兵庫県氷上郡芦田村
死没 東京
軍歴 1912 - 1945
最終階級 海軍中将
指揮 第十一航空艦隊参謀長
第一航空艦隊司令長官
軍令部次長
戦闘 太平洋戦争
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大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、1891年6月2日 - 1945年8月16日)は旧日本海軍軍人。最終階級は海軍中将兵庫県氷上郡芦田村(青垣町を経て現在は丹波市)出身。海軍兵学校第40期生。「特攻生みの親」として有名ではあるが、これが事実であるかは議論の余地がある(後述)。

人物概要

幼い頃より、日露戦争軍神広瀬武夫に憧れて海軍を志し、旧制柏原中学校を卒業後、海軍兵学校へ入学した。兵学校40期卒業後、海軍少尉に任官され、1918年(大正7年)にはイギリスへ留学、帰国後の1921年(大正10年)、海兵40期同期の千田貞敏吉良俊一らと共に選抜され、センピル教育団の講習に参加した。その後は海軍航空隊の養成に尽力した。

真珠湾攻撃

現在の大西に対する批評では、特攻隊の生みの親としての名が有名だが、真珠湾攻撃の作戦計画の原案を作成したのも大西である。連合艦隊司令長官山本五十六に非常に信頼されていた彼は、第十一航空艦隊参謀長であった1941年1月下旬、山本から「ハワイを航空攻撃できないか」という腹案を示され、基本計画作成の依頼を受けた。

その時、彼は源田実中佐らと協力して真珠湾攻撃計画の作成にかかった。最初の案では真珠湾攻撃の際は湾内の深度が浅すぎて魚雷攻撃が困難なため雷撃を断念し、爆撃のみによる攻撃を行うものであったがこれに対して山本は不満を示したといわれる。そこで、雷撃を併用する案に改めた上で大西は海軍兵学校同期であった軍令部第一部(作戦部)部長福留繁少将にその案を示し、作戦の実行を依頼した。その後、諸問題の解決や軍令部への説得により作戦が実行され、成功を収めた。

特攻の発案

太平洋戦争時、中将となっていた大西は、いわゆる神風特別攻撃隊の編成を行なったことにより「特攻の父」「特攻生みの親」などと呼ばれるが、当初大西は「特攻は統帥の外道である」とし、特攻隊の編成には反対の立場をとっていたとされる。その一方で、1944年6月のマリアナ沖海戦での連合艦隊の一方的敗北以降、日本海軍航空隊が従来の航空攻撃では連合軍艦船に対してほとんど打撃を与えられなくなった状況で、特攻戦法の導入を主唱したのは当時第1航空艦隊司令長官であった大西であった。

「特攻生みの親」の解釈

大西が特攻の発案者でないことを示す状況証拠としては以下が挙げられる。

  • フィリピンで戦った第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が、「特攻生みの親」となるには、特攻隊編成、特攻作戦の組織的実施を行うだけの部隊・兵器機材の編成権限が必要であるが、このような権限は当時の大西中将にはなかった。
  • 1944年7月21日大本営軍令部)は「大海指第431号」によって、後日、「回天」、「桜花」、「震洋」として量産される特攻兵器による奇襲攻撃の計画を実行に移したが、当時大西中将は軍需省航空兵器総務局長であった。
  • 「大海機密第261917番電」は、「神風隊攻撃の発表の際は、戦意高揚のため、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっているが、これも、大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日源田実中佐らの起案であり、着任後、特攻隊戦果の確認できた10月26日発信であった。
  • 大尉らが乗った特攻機(零戦)は、機上で爆弾の信管が解除できるように改造されている[要出典]。当時の慣習として軍令部の許可がなければ絶対に兵器改修を行ってはならなかったこと[要出典]と、大西着任から特攻隊初出撃まで1週間もなかった(台湾沖航空戦の終了が10月17日、この直後に大西が着任し神風特攻隊初出撃(会敵せず帰還)は10月21日)。

このように、特攻の発案者が大西ではないことは状況証拠から見て明らかだが、今なお大西を特攻戦術の発案者とされることが多い。しかし、大西はパイロット育成には時間と金と労力がかかることをよく理解しており、特攻作戦のために貴重なパイロットを損失することに対して否定的であり、特攻作戦採用に際しては初期の段階では否定していた。

当時の戦局や大西の発言記録等では、彼が指揮する第一航空艦隊は当時突入してくる第二艦隊第一遊撃部隊(栗田艦隊)のためにフィリピンの制空権を奪う必要があったが、彼の着任直前に起きた台湾沖航空戦で大打撃を受けた第一航空艦隊に残されていた可動機は、わずかに使い古しの零戦約30機程度であった。

また、彼を知る複数の関係者は戦後、大西について「もし(特攻作戦を行って)戦争に勝っていたとしても彼は自決していただろう」という証言をしている[要出典]

終戦と自決 そして墓所

1945年5月、大西は海軍軍令部次長に起用された。すでに終戦が模索されていた時期の大西起用には現在もなお賛否両論があるが、大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を訴えた(もっとも豊田は戦後「自分が戦争継続を唱えたのは陸軍だけが戦争継続を唱える形になることを避けるためだった」と書いている)。豊田と共に大臣の許可なく昭和天皇に対し奏上し、日頃は温和で寡黙な米内光政海軍大臣に大臣室に呼ばれて怒鳴られたこともあった。その時大臣秘書官は大西が激発して刃傷に及ぶ危険を感じて扉のところで待機していたという。また、閣僚クラスの会議でも軍刀を持って現れ、米内に「大西君、君が来るところではない」とたしなめられたりしている。

なお、大西の「二千万特攻」は世に言う「一億特攻」と違って本気で二千万人の特攻隊を出すつもりだったといわれている。大西と同期で、穏健派の海軍次官だった多田武雄は毎日のように大西に責められた挙句、ノイローゼになり出勤拒否を起こした。

日本の敗戦を見とどけると、8月16日、「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決。遺書には特攻で散華した兵士達への謝罪と共に、生き残った若者に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだという。享年54歳。

割腹自決時に遺した辞世の句は2つあり、「これでよし 百万年の 仮寝かな」と「すがすがし 暴風のあと 月清し」がある。

終戦時の連合艦隊司令長官であった小沢治三郎は、大西の自決行為に関し、最後の特攻機に搭乗して戦死した宇垣纏と共に名前を挙げ、「皆がそうやっていたら、一体誰がこの戦争の責任を取るんだ」と批判的な発言をしている(詳しくは、小沢治三郎の項目を参照のこと)

親族には甥である「ラバウルのリヒトホーフェン」と呼ばれた笹井醇一がいる。

2000年(平成12年)、鶴見総持寺の大西中将の墓所に、「遺書の碑」が建てられた。発起人であり、副官でもあった門司 親徳(もじ ちかのり)氏の念願がかない、命日である8月16日に、多くの方々の参列を得て除幕式が催された。

逸話

  • 海軍兵学校の同期には宇垣纏・山口多聞がいる。運動神経に優れまた非常にけんかが強かった。棒倒し競技の際には山口と組んで大暴れしたという。山口とは後々まで仲が良かったが、こと作戦に関しては譲らず、意見を戦わせた。
  • 酒好きでもあり、飲酒による武勇伝もある。その一つに、酒のために海軍大学校の入試を不合格になったというものもある。学科試験をパスし口頭試問に臨んだが、当日になって「大西は出頭するに及ばず」と受験できなかった。理由は「素行不良」であった。大西はその数日前に料亭で飲んだ際に暴れ、芸者を殴っていた。いわゆる軍港芸者であれば飲んで暴れる海軍士官の扱いに慣れているのだが、このときの芸者は横須賀に来て間もないこともあって、あしらうことができなかった。彼女はこの件を憲兵隊に訴え、さらに主人が新聞に「海軍士官の暴力事件」として地元の新聞に記事にさせた。そのため入試候補の取り消しとなった。海軍大学校の受験は三回までに制限されており、大西はこのときが三回目であった。
  • 大西は36歳のときに少佐で結婚しているが、晩婚の理由を伝記刊行会編の「大西瀧治郎伝」では「兵学校同期の航空学生15名のうち1/3が平時の飛行で殉職し、残りも二度三度の事故に遭遇している。そのため嫁を探しても無駄だと独身を通そうと考える者が多かった。大西などは結婚適齢期をそのような事情のために、いわばやむなく空白で過ごしたわけである」としている。夫人である松見嘉子とは見合い結婚であった。引き合わせたのは佐世保海軍工廠人事部長、井上四郎中佐(のちに少将)であった。嘉子夫人の姉久栄が笹井賢二造兵大尉に嫁ぎ、佐世保の官舎に住んでおり、懇意にしていた井上の妻に妹の縁談相手の紹介を頼んだのがきっかけである。松見家は一橋家の御典医の家系で、父文平は一橋大学の創立者にして府会議員であり、教育界や政界にも知られていた。見合いは海軍士官にも贔屓にされる佐世保の一流料亭、万松楼で行われたが、まだ結婚したくなかった大西は、席をめちゃくちゃにして破談にしてやろうと考えた。見合い当日、大西は大酒を飲んで泥酔した上に褌姿に芸者を連れて見合いの席に現れ、踊ったり卑猥な言葉を浴びせたりと暴れたり、目の上の負傷を嘉子に「軍務上のお怪我ですか?」と尋ねられた際、「先夜、上のほうから拳骨らしきものが降ってきましてなあ」と答えている。このような行為を意図的に行って、見合い相手やその家族に嫌われてようとした。しかしその姿をじっと見ていた嘉子の母親が、大西の傍若無人で飾り気のない人柄を非常に気に入り、「海軍軍人としてあっぱれな振舞い、このような豪傑に娘を嫁がせたい」と娘に強く結婚を促し、信頼をもって嘉子を嫁がせたというエピソードが残っている。
  • 終戦も近い頃、内閣書記官長迫水久常が書記官室で執務をしていた時、不意に大西が来訪してきた。当時の大西は和平反対論者として様々な妨害工作を行っていた。迫水も自分を脅迫しに来たのだろうと構えていたが、大西は席に座るなり訥々(とつとつ)としゃべりだし、「我々は今回の戦いにおいて劣勢を覆すべく、様々な努力をしてきた。しかし、やることなすこと全て誤算と敵に裏をかかれる失態をさらすだけの結果となり…挙句そのつけを若い人達、国民に強いている。……我々は甘かった。本当に甘かった…。」と苦悶の表情を浮べながら話、最後に「……何か良い考えはないですか……。」と静かに半ば憔悴(しょうすい)しきった顔になって部屋を出て行った。それから2ヶ月後、割腹自決を遂げた。
  • 終戦時の割腹自決の後、特攻隊員の犠牲者の名簿にも、大西の名が刻まれた。

演じた人物

外部リンク