「ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
幼少時を[[スペイン]]の宮廷で過ごしたため、[[イエズス会]]の影響を受けて厳格な[[カトリック教会|カトリック]]教徒となった。[[1576年]]に父マクシミリアン2世の後を受けて皇帝に即位する。父は宗教に対しては寛容策を採用することで皇帝権力の強化や国内の安定化を図っていたが、ルドルフ2世はそれを廃し、徹底して[[プロテスタント]]を弾圧した。これが原因で国内情勢は一気に不安定化し、国内各地で反乱が勃発する。特に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の反発は凄まじく、ルドルフ2世は穏健政策として[[1606年]]、同地域における信教の自由を認めた。
幼少時を[[スペイン]]の宮廷で過ごしたため、[[イエズス会]]の影響を受けて厳格な[[カトリック教会|カトリック]]教徒となった。[[1576年]]に父マクシミリアン2世の後を受けて皇帝に即位する。父は宗教に対しては寛容策を採用することで皇帝権力の強化や国内の安定化を図っていたが、ルドルフ2世はそれを廃し、徹底して[[プロテスタント]]を弾圧した。これが原因で国内情勢は一気に不安定化し、国内各地で反乱が勃発する。特に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の反発は凄まじく、ルドルフ2世は穏健政策として[[1606年]]、同地域における信教の自由を認めた。


しかしもともと政治能力に欠け、国政を重臣に任せきっていたルドルフ2世の政策は不徹底だったため、[[1608年]]にハンガリーで大規模な反乱が勃発した。事ここに至って遂にルドルフ2世はハンガリー王位を放棄し、弟の[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]にその王位を譲っている。翌[[1609年]]、ハンガリーのように反乱が起こることを恐れたルドルフ2世は、[[ボヘミア]]における信仰の自由を認めたが、これもハンガリーと同様に政策が不徹底だったため、ルドルフ2世の死後、神聖ローマ帝国内において[[三十年戦争]]が勃発する一因を作り上げてしまったのであった。
しかしもともと政治能力に欠け、国政を重臣に任せきっていたルドルフ2世の政策は不徹底だったため、[[1608年]]にハンガリーで大規模な反乱が勃発した。事ここに至って遂にルドルフ2世はハンガリー王位を放棄し、弟の[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]にその王位を譲っている。翌[[1609年]]、ハンガリーのように反乱が起こることを恐れたルドルフ2世は、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]における信仰の自由を認めたが、これもハンガリーと同様に政策が不徹底だったため、ルドルフ2世の死後、神聖ローマ帝国内において[[三十年戦争]]が勃発する一因を作り上げてしまったのであった。


生涯で一度も結婚しなかった。1612年、60歳で死去。後を弟のマティアスが継いだ。
生涯で一度も結婚しなかった。1612年、60歳で死去。後を弟のマティアスが継いだ。
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2010年9月12日 (日) 08:48時点における版

ルドルフ2世
Rudolf II
神聖ローマ皇帝
在位 1576年10月12日 - 1612年1月20日
別号 オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王

出生 1552年7月18日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国 ウィーン
死去 1612年1月20日
ボヘミア プラハ
埋葬  
ボヘミア プラハ 聖ヴィート大聖堂
家名 ハプスブルク家
王朝 ハプスブルク朝
父親 マクシミリアン2世
母親 マリア・デ・アブスブルゴ
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ルドルフ2世Rudolf II.1552年7月18日 - 1612年1月20日)は、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝(在位:1576年 - 1612年)、ハンガリー王(在位:1572年 - 1608年)、ローマ王(在位:1575年 - 1576年)、ボヘミア王(在位:1575年 - 1612年)。マクシミリアン2世と皇后マリアの子。

生涯

幼少時をスペインの宮廷で過ごしたため、イエズス会の影響を受けて厳格なカトリック教徒となった。1576年に父マクシミリアン2世の後を受けて皇帝に即位する。父は宗教に対しては寛容策を採用することで皇帝権力の強化や国内の安定化を図っていたが、ルドルフ2世はそれを廃し、徹底してプロテスタントを弾圧した。これが原因で国内情勢は一気に不安定化し、国内各地で反乱が勃発する。特にハンガリーの反発は凄まじく、ルドルフ2世は穏健政策として1606年、同地域における信教の自由を認めた。

しかしもともと政治能力に欠け、国政を重臣に任せきっていたルドルフ2世の政策は不徹底だったため、1608年にハンガリーで大規模な反乱が勃発した。事ここに至って遂にルドルフ2世はハンガリー王位を放棄し、弟のマティアスにその王位を譲っている。翌1609年、ハンガリーのように反乱が起こることを恐れたルドルフ2世は、ボヘミアにおける信仰の自由を認めたが、これもハンガリーと同様に政策が不徹底だったため、ルドルフ2世の死後、神聖ローマ帝国内において三十年戦争が勃発する一因を作り上げてしまったのであった。

生涯で一度も結婚しなかった。1612年、60歳で死去。後を弟のマティアスが継いだ。

文化的功績

このように政治的には無能だったルドルフ2世であるが、教養に富んでいたことから文化人としては優れていた。ルドルフ2世が芸術や学問を保護した結果、その下にはルーラント・サーフェリーバルトロメウス・スプランヘルジュゼッペ・アルチンボルドハンス・フォン・アーヘンアドリアーン・ デ・フリースといった欧州における多数の芸術家が集まり、帝国首都のプラハは文化的に大いなる繁栄を遂げたのである。プラハは国際マニエリスム様式の重要拠点でもあり、ここを起点にマニエリスム様式は1600年前後のヨーロッパ各国に拡散していったのである。 またルドルフ2世自身は、特に錬金術に大いなる興味を示しており、実際に多くの錬金術師のパトロンとなっていた。また、天文学者のティコ・ブラーエヨハネス・ケプラー、植物学者のシャルル・ド・レクリューズなどもルドルフ2世のもとに出入りしていた。

関連項目


先代:
マクシミリアン2世
神聖ローマ皇帝
1576年 - 1612年
次代:
マティアス
オーストリア大公
ハンガリー王

1572年 - 1608年
ボヘミア王
1575年 - 1611年