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[[日本国有鉄道]]では、賃金引上げや労働環境の改善、合理化反対を目指しての労働闘争が頻繁に繰り返されていたが、[[公共企業体]]職員であった[[国鉄労働組合]](国労)などの労働組合員による争議行為は、公共企業体等労働関係法(公労法)17条で争議行為すなわち[[ストライキ]]を禁じられていることから、組合は運行安全規範を遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆用し、運行安全規範を遵守することで労働闘争の手段とした'''遵法闘争'''を度々おこなっていた。ただし、遵法とはいっているが1956年に政府はこの労働闘争は違法と認定<ref name=tokyo00>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、117頁</ref>しており、行わないように指導していた。
[[日本国有鉄道]]では、賃金引上げや労働環境の改善、合理化反対を目指しての労働闘争が頻繁に繰り返されていたが、[[公共企業体]]職員であった[[国鉄労働組合]](国労)などの労働組合員による争議行為は、公共企業体等労働関係法(公労法)17条で争議行為すなわち[[ストライキ]]を禁じられていることから、組合は運行安全規範を遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆用し、運行安全規範を遵守することで労働闘争の手段とした'''遵法闘争'''を度々おこなっていた。ただし、遵法とはいっているが1956年に政府はこの労働闘争は違法と認定<ref name=tokyo00>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、117頁</ref>しており、行わないように指導していた。


1970年代当時、動労は国鉄経営陣に対し2つの要求<ref name=tokyo00>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、117頁</ref>を行い遵法闘争を実施した。その要求は、ひとつは踏切事故防止のため警報機と遮断棒を全ての踏切に設置すること、もうひとつは「安全のため」2km以上のトンネルがある区間と深夜時間帯の運転を2人勤務にするものであった。前者の要求について経営側は全部は無理だが実施するとしたが、後者については拒否した。なお、運転2人勤務とは[[蒸気機関車]](SL)時代の名残で、SLでは運転を担当する機関士と石炭をボイラーに投入する機関助士が運行上必要であった<ref name=tokyo01>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、118頁</ref>。しかしSLが[[電化]]や[[気動車]]の導入など動力近代化が推進され、全廃<ref>国鉄では1976年までに蒸気機関車の運行を終了させ、その後はイベントなどでした運行されなくなった。</ref>の方向に向ったことや、保安設備の近代化によって機関助士の出番が無くなり運転手は1人でまかなえるようになった。このため経営陣と動労は1972年5月までに蒸気機関車や特別な事情がある場合を除き運転1人勤務を原則とする労働協定が締結された。しかし、動労は蒸気機関車の終焉が早まったためか<ref name=tokyo01>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、118頁</ref>、1973年になって2人勤務の話を蒸し返し、[[2月1日]]から「第2次遵法闘争」がはじまり、3月5日から散発的に全国的に遵法闘争を実施した。結果としてダイヤの乱れが発生するようになった。
1970年代当時、動労は国鉄経営陣に対し2つの要求<ref name=tokyo00>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、117頁</ref>を行い遵法闘争を実施した。その要求は、ひとつは踏切事故防止のため警報機と遮断棒を全ての踏切に設置すること、もうひとつは「安全のため」2km以上のトンネルがある区間と深夜時間帯の運転を2人勤務にするものであった。前者の要求について経営側は全部は無理だが実施するとしたが、後者については拒否した。なお、運転2人勤務とは[[蒸気機関車]](SL)時代の名残で、SLでは運転を担当する機関士と石炭をボイラーに投入する機関助士が運行上必要であった<ref name=tokyo01>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、118頁</ref>。しかしSLが[[電化]]や[[気動車]]の導入など動力近代化が推進され、全廃<ref>国鉄では1976年までに蒸気機関車の運行を終了させ、その後はイベントなどでした運行されなくなった。</ref>の方向に向ったことや、保安設備の近代化によって機関助士の出番が無くなり運転手は1人でまかなえるようになった。このため経営陣と動労は1972年5月までに蒸気機関車や特別な事情がある場合を除き運転1人勤務を原則とする労働協定が締結された。しかし、動労は蒸気機関車の終焉が早まったためか<ref name=tokyo01>池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、118頁</ref>、1973年になって2人勤務の話を蒸し返し、[[2月1日]]から「第2次遵法闘争」がはじまり、3月5日から散発的に全国的に遵法闘争を実施した。結果としてダイヤの乱れが発生するようになった。


===事件の概要===
===事件の概要===

2010年2月13日 (土) 12:58時点における版

上尾事件(あげおじけん)は、1973年(昭和48年)3月13日国鉄動力車労働組合(動労)の遵法闘争に反抗した利用客が日本国有鉄道高崎線上尾駅埼玉県上尾市)で起こした騒擾事件である。

事件の概要

遵法闘争の背景

日本国有鉄道では、賃金引上げや労働環境の改善、合理化反対を目指しての労働闘争が頻繁に繰り返されていたが、公共企業体職員であった国鉄労働組合(国労)などの労働組合員による争議行為は、公共企業体等労働関係法(公労法)17条で争議行為すなわちストライキを禁じられていることから、組合は運行安全規範を遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆用し、運行安全規範を遵守することで労働闘争の手段とした遵法闘争を度々おこなっていた。ただし、遵法とはいっているが1956年に政府はこの労働闘争は違法と認定[1]しており、行わないように指導していた。

1970年代当時、動労は国鉄経営陣に対し2つの要求[1]を行い遵法闘争を実施した。その要求は、ひとつは踏切事故防止のため警報機と遮断棒を全ての踏切に設置すること、もうひとつは「安全のため」2km以上のトンネルがある区間と深夜時間帯の運転士を2人勤務にするものであった。前者の要求について経営側は全部は無理だが実施するとしたが、後者については拒否した。なお、運転士2人勤務とは蒸気機関車(SL)時代の名残で、SLでは運転を担当する機関士と石炭をボイラーに投入する機関助士が運行上必要であった[2]。しかしSLが電化気動車の導入など動力近代化が推進され、全廃[3]の方向に向ったことや、保安設備の近代化によって機関助士の出番が無くなり運転手は1人でまかなえるようになった。このため経営陣と動労は1972年5月までに蒸気機関車や特別な事情がある場合を除き運転士1人勤務を原則とする労働協定が締結された。しかし、動労は蒸気機関車の終焉が早まったためか[2]、1973年になって2人勤務の話を蒸し返し、2月1日から「第2次遵法闘争」がはじまり、3月5日から散発的に全国的に遵法闘争を実施した。結果としてダイヤの乱れが発生するようになった。

事件の概要

国鉄急行形電車(165系)

当時、高崎線沿線は首都圏のベッドタウンとなり定着人口も増加し、通勤通学客も増大の一途を辿っていた。そのため過密状態のダイヤの中、朝夕通勤通学時間帯の中距離列車は既に混雑が慢性化していた。そのうえ国鉄は通勤用電車の増車が慢性的な赤字体質の為にままならず、後述のように急行用電車を朝夕の時間帯に投入していたため、日常的に混雑していた。このため利用客の不満は高まっていった。

高崎線の運行に従事する動労も3月12日の月曜日から「遵法闘争」を実施した。事件が勃発した3月13日は火曜日で、企業では年度末、学校では期末試験の時期であった。国労・動労の遵法闘争は、法令・規則を遵守し安全確認・信号の確認などルールを遵守する闘争である。実際の運行が、通勤ラッシュによる遅れで「定時運行」が困難になるものと見込みで運行している状況で、法令・規則から乖離がある状況だった。改めて、法令・規則通りの運行を、労働組合が行った。

上尾駅に籠原上野行き上り普通列車832M[4](169系急行型電車12両編成)が14分遅れて午前7時10分に1番線に入線した。本来のダイヤでは午前6時54分[2]で、午前5時41分発の始発822Mから7本目のはずであった。しかし事件当日上尾駅に始発電車が発車したのは25分遅れの午前6時04分で、822Mから832Mまでに到着すべき4本(824M,826M,828M,830M)が、前日遵法闘争の後遺症のため車両のやり繰りが付かなかったことから運休し、先発の1830Mは832Mの後続となっていた。そのため上尾駅には1時間4分の間到着する列車がなかった[2]ことから、大勢の乗客が待っており、上尾駅は改札制限を行っていた。

だが、832Mには定員840人に対し既に3000人以上が乗車しており、上尾駅のホームにいた5000人もの利用客の大半が乗車できなかった。そのためなんとかしても乗車しようとする乗客と列車を発車しようとする職員との間で小競り合いが発生していた。

832Mが発車出来ない状況で、後続となっていた前橋発上野行き上り普通列車1830M(急行形国鉄165系電車12両編成、午前6時48分発予定)が52分遅れで2番線に入線した。この1830M[5]も定員944人のところ4000人以上が乗車するという超満員であった。この混乱の中で先に到着した832Mよりも先に1830Mを出発させ、さらに、この両列車を2駅先の大宮で運行を打ち切るという構内放送を行った[6]。なお、これより前に832Mの運転手(当時31歳)は殺気立った乗客が運転室の窓ガラスを割るなどの状態から身の危険を感じ上尾駅の駅長室に逃げ込んだが、その後を追いかけた乗客が駅長室に流れ込み、中にいた駅長と助役が負傷した[7]

この事態に、国鉄本社は警察に通報し警官70人を派遣した[7]が、駅周辺に集まった12000人の通勤客に対し無力である為、機動隊員など700人まで増員したが、群衆整理するのがやっとの状況であった。なお、上尾駅に停車していた列車2本であるが、運転設備が破壊され駅のポイントや信号なども破壊されたため、発車不能になった。また、午前7時30分発車予定で駅構内に入線出来ずにいた上野発新潟行き下り特急とき2号」も投石され、運転席の窓ガラスが割られ、ヘッドマークを壊された[6]

この暴動で高崎線の大宮・高崎間の全線が不通になったことから、桶川駅北本駅鴻巣駅熊谷駅などでも駅舎の窓ガラスが割られるなどの被害を受けた。この事態に当時の運輸大臣であった新谷寅三郎は国鉄に代行バス運行を指示し、バス20台が投入された[6]。上尾駅周辺の混乱も午後3時半に収束し、高崎線は午後5時半ごろに復旧したが、ダイヤが大幅に乱れていたことから、再び暴動が起きないようにバス70台が手配され、利用客の足を確保した。

この暴動の参加者は1万人前後いたが逮捕者は僅か7人であった。逮捕されたのは混乱に乗じて駅から金銭を奪った者、取材に来ていた新聞記者に暴行を加えた者などであった(ただし、本事件以前に阪急電鉄宝塚線で発生した庄内事件では1人の逮捕者も出ていない)。

事件の要因

この事件は遵法闘争によってダイヤを混乱したことが直接の原因であるが、当時の国鉄職員による営業態度に対し日頃から不満を持っていた利用客の不満が爆発した一面もある。またこの事件に対し昭和48年度の警察白書の『第7章「公安の維持」』のなかで、「急激な都市化の進展や国民意識の変化に伴って従来予想もされなかったような各種の事案」として取り上げられ、都市への過密によることも背景であると指摘している。しかし、最大の要因として朝の通勤時間帯に通勤電車として、乗降に時間のかかる急行列車用車両が使用されていた背景もある[8]

国鉄は慢性的に赤字であったことから、各線区に対する車両の投入両数(購入・維持予算増)、及び列車増発数(人件費増)を最低限に抑えざるをえなかった。そのため少しでも輸送力を確保するため近郊形電車を最混雑時間帯に集中的に走らせ、その前後の時間帯に2ドア・デッキ付の急行列車用車両(165系電車もしくは碓氷峠用の169系電車)を投入するなどの一時的な対策をとらざるをえなかったことも背景[8]がある。

この事件の原因のひとつであった当該列車は2本とも、こういった急行型電車であった。そのうえ本来なら午前6時代に出発しているはずの「通勤電車」が、事件当日の数少ない運行車両であったことから、つり革のない急行電車に乗客が「すし詰め」になったことからさらに状況を悪くしたといえる[9](なお、本来の通勤型である115系電車であれば、最大15両編成で定員1804人であり、上尾駅で事件で巻き込まれた列車の2倍の定員であった[9])。そのため仮に遵法闘争がなくても利用者の怒りが爆発していた可能性が指摘されている[9][10]

事件のその後

事件を受けて動労側も遵法闘争を中止した。しかし労使交渉が纏まらず動労は遵法闘争を4月に再開した[8]。その結果4月24日には大宮駅での混乱をきっかけに、列車が到着しないことに対する利用者の不満が爆発した。この際には38駅で暴動が発生し首都圏の国鉄網が麻痺し600万人以上の足に影響するという、上尾事件以上の大混乱となる首都圏国電暴動に発展した[8]

国鉄はラッシュ時に急行形電車の投入を取り止めるため、同年4月に近郊形電車である115系電車300番台42両をメーカーに緊急発注した[11]。その後も増備を続け、上尾駅を朝のラッシュ時に発着する電車からは1975年までに急行形電車が排除された[12]

注釈及び引用

  1. ^ a b 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、117頁
  2. ^ a b c d 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、118頁
  3. ^ 国鉄では1976年までに蒸気機関車の運行を終了させ、その後はイベントなどでした運行されなくなった。
  4. ^ 832Mは上野駅に7時35分到着後、7時51分発直江津行き急行「妙高2号」になるため、グリーン車2両とビュフェが設置されており、その分普通車は少なかった。
  5. ^ 1830Mは7時27分に上野駅到着後、7時40分に上野発籠原行きの普通列車になるダイヤだった
  6. ^ a b c 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、119頁
  7. ^ a b 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、444頁
  8. ^ a b c d 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、120頁
  9. ^ a b c 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、123頁
  10. ^ とは言え、この状況自体がそもそも「この時間帯に空車回送などやったら新聞で批判されてしまう」等といった労組側の主張による処置であった(当初、マスメディア新聞総連が国労・動労に同調していた)。実際には東武DRC(浅草発毎時2本以上)、小田急ロマンスカー(新宿発毎時1本以上)等、ラッシュ時間帯にも国鉄以上の過密ダイヤの下堂々と空車回送を行っていたが、批判が出ることはなかった。
  11. ^ 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、123頁
  12. ^ 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年、124頁

参考文献・出典

  • 池口英司・梅原淳『国鉄型車両事故の謎とゆくえ』 東京堂出版、 2005年。

関連項目

外部リンク