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== 生涯 ==
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茂姫は[[安永]]2年([[1773年]])[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]に[[江戸]][[三田 (港区)|芝三田]]の薩摩藩上屋敷で誕生した。最初の名は「'''篤姫'''」「'''於篤'''」といった。茂姫は誕生後、国許の薩摩に移され養育されていたが、[[徳川治済|一橋治済]]の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約<ref>[[明和]]6年([[1769年]])に一橋家出身の重豪正室・保姫、[[安永]]元年([[1772年]])に浄岸院が死去し、将軍家・一橋家との縁が薄れることで再びお手伝い普請など財政の負担が増えることを恐れた島津家側からの働きによるという。当時の一橋家の家老は[[田沼意次]]の弟・[[田沼意誠]]で、一橋家を通じて幕閣に働きかけるのが主目的であったとされる。 参考文献『近世国家の支配構造』([[雄山閣]])ISBN 4639005814「松平定信の入閣を巡る一橋治斉と御三家の提携」高澤憲治</ref>し、薩摩から江戸に呼び戻された。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に名を改めた。茂姫は婚約に伴い芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、茂姫は「御縁女様」と称され婚約者の豊千代と共に養育されていたが、10代将軍・[[徳川家治]]の嫡男[[徳川家基]]の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は[[五摂家]]か[[宮家]]の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも[[外様大名]]の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる[[浄岸院]]の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は[[徳川綱吉]]・[[徳川吉宗|吉宗]]養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このためこの婚儀は予定通り執り行われることとなった(茂姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の[[寛政]]元年([[1789年]]2月4日である。)。茂姫は天明元年([[1781年]])10月頃に、豊千代とその生母・[[お富の方|於富]]と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また将軍家の正室は[[公家]]や[[宮家]]の娘を迎える事が慣例であるため、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の[[天明]]7年([[1787年]])[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]に島津家と縁続きであった[[近衛家]]及び[[近衛経熙]]の養女とな「'''近衛寔子'''(このえただこ)」として結婚することとなったのである。また、父・重豪の正室・[[保姫]]は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理の甥と姪という関係であった。
茂姫は[[安永]]2年([[1773年]])[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]に[[江戸]][[三田 (港区)|芝三田]]の薩摩藩上屋敷で誕生した。最初の名は「'''篤姫'''」「'''於篤'''」といった。茂姫は誕生後、国許の薩摩に移され養育されていたが、[[徳川治済|一橋治済]]の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約<ref>[[明和]]6年([[1769年]])に一橋家出身の重豪正室・保姫、[[安永]]元年([[1772年]])に浄岸院が死去し、将軍家・一橋家との縁が薄れることで再びお手伝い普請など財政の負担が増えることを恐れた島津家側からの働きによるという。当時の一橋家の家老は[[田沼意次]]の弟・[[田沼意誠]]で、一橋家を通じて幕閣に働きかけるのが主目的であったとされる。 参考文献『近世国家の支配構造』([[雄山閣]])ISBN 4639005814「松平定信の入閣を巡る一橋治斉と御三家の提携」高澤憲治</ref>し、薩摩から江戸に呼び戻された。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に名を改めた。茂姫は婚約に伴い芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、茂姫は「御縁女様」と称され婚約者の豊千代と共に養育されていたが、10代将軍・[[徳川家治]]の嫡男[[徳川家基]]の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は[[五摂家]]か[[宮家]]の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも[[外様大名]]の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる[[浄岸院]]の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は[[徳川綱吉]]・[[徳川吉宗|吉宗]]養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このためこの婚儀は予定通り執り行われることとなった(茂姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の[[寛政]]元年([[1789年]]2月4日である。)。茂姫は天明元年([[1781年]])10月頃に、豊千代とその生母・[[お富の方|於富]]と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また将軍家の正室は[[公家]]や[[宮家]]の娘を迎える事が慣例であるため、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の[[天明]]7年([[1787年]])[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]に島津家と縁続きであった[[近衛家]]及び[[近衛経熙]]の養女となるために名を茂姫から'''寧姫'''と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「'''近衛寔子'''(このえただこ)」として結婚することとなったのである。また、父・重豪の正室・[[保姫]]は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理の甥と姪という関係であった。


この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。一方、実母である市田氏はその権勢により弟の[[市田盛常]]を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で[[島津斉宣]]の母である[[公家]]の娘・堤氏(お千万の方)を[[江戸]]から[[鹿児島]]に追いだし、自らは重豪の正室同様に振る舞ったのである。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は後の[[近思録崩れ]]の原因の一つとなった。
この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。一方、実母である市田氏はその権勢により弟の[[市田盛常]]を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で[[島津斉宣]]の母である[[公家]]の娘・堤氏(お千万の方)を[[江戸]]から[[鹿児島]]に追いだし、自らは重豪の正室同様に振る舞ったのである。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は後の[[近思録崩れ]]の原因の一つとなった。

2008年2月17日 (日) 13:30時点における版

広大院(こうだいいん、安永2年6月18日1773年8月6日) - 弘化元年11月10日1844年12月19日))は江戸時代後期の女性で、11代将軍・徳川家斉正室(御台所)。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方)。市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷足軽という下級武士階級の出身であるとされるが異説もある。養父は近衛経熙。実名は寧姫篤姫茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかった物である。弟に奥平昌高(実母が鈴木氏とする説もある)、姉に敬姫奥平昌男婚約者)がいる。

生涯

茂姫は安永2年(1773年6月18日江戸芝三田の薩摩藩上屋敷で誕生した。最初の名は「篤姫」「於篤」といった。茂姫は誕生後、国許の薩摩に移され養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約[1]し、薩摩から江戸に呼び戻された。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に名を改めた。茂姫は婚約に伴い芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、茂姫は「御縁女様」と称され婚約者の豊千代と共に養育されていたが、10代将軍・徳川家治の嫡男徳川家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉吉宗養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このためこの婚儀は予定通り執り行われることとなった(茂姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の寛政元年(1789年2月4日である。)。茂姫は天明元年(1781年)10月頃に、豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また将軍家の正室は公家宮家の娘を迎える事が慣例であるため、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の天明7年(1787年11月15日に島津家と縁続きであった近衛家及び近衛経熙の養女となるために名を茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえただこ)」として結婚することとなったのである。また、父・重豪の正室・保姫は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理の甥と姪という関係であった。

この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。一方、実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で島津斉宣の母である公家の娘・堤氏(お千万の方)を江戸から鹿児島に追いだし、自らは重豪の正室同様に振る舞ったのである。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は後の近思録崩れの原因の一つとなった。

寛政8年(1796年)には家斉の五男・徳川敦之助を産む。御台所が男子を出生するのは2代将軍・徳川秀忠正室お江与の方以来であった。但し、その3年前に側室が産んだ敏次郎(後の家慶)が将軍家世子と定められていたため、敦之助は御三卿の一つ・清水徳川家の養子となった。この慶事により茂姫、及び島津重豪の威勢はますます盛大な物となった。が、敦之助はわずか3年後の寛政11年(1799年)に亡くなってしまう。また、寛政10年(1798年)にも懐妊するが流産してしまっている。

このころには驕慢な振る舞いの多い茂姫を家斉は厭うようになり、大勢いる側室たちに寵愛を奪われ、その後2度と家斉の子供を産むことはなかった。

異母弟で9代藩主の島津斉宣が隠居後、財政難を理由に幾度も幕府に要請した薩摩帰国が却下されたのは、広大院の意図による物とされるが、その理由は、享和元年の母・お登勢の方(市田氏)死後に斉宣が市田一族を薩摩藩政から排除したことに対して広大院が激怒したことにあるといわれ、御台所の権威を背景に、薩摩藩政にも大きな影響力を及ぼした。

天保8年(1837年)、夫・家斉が隠退して大御所となって西の丸に移ると茂姫も西の丸に移り、「大御台様」と称せられるようになる。

天保12年(1841年)、夫・家斉の死去に伴い落飾して「広大院」を名乗る。翌年従一位の官位を授かり、以後「一位様」と呼ばれるようになる。

晩年には、家斉側室の一人・お美代の方が家斉の娘・溶姫(母はお美代の方)を生母とする前田慶寧を次期将軍に擁立せんと企む陰謀を阻止するが、これが最後の御台所らしい行動であった。

1844年に死去。法名「広大院殿超誉妙貞仁大姉」。墓所は増上寺。夫の家斉とは別の寺に葬られた。

墓所

戦後、増上寺・徳川家墓所が西武鉄道に売却された際に広大院の墓も発掘されたが、身長は143.8cmであった。同時期に発掘された他の将軍正室・側室の遺骨と比較してもかなり小さかった。ちなみに広大院は生前は美女で知られていたという。広大院の墓の残存状況は悪く、着物の刺繍であったとおぼしき繊維製品が泥水の中にぷかぷか浮いていたという状況で、遺骨以外の遺品はほとんど見つからなかった。(参考文献 『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』)

また彼女の墓所には壮麗な八角塔が建てられていたのだが、この発掘のどさくさに紛れ、この墓塔は行方不明になったままである。改葬後は他の将軍正室は夫と並んで合葬されたのに対し、広大院は桂昌院月光院等と共に合葬墓に入れられた。

外部リンク

関連書籍

補注

  1. ^ 明和6年(1769年)に一橋家出身の重豪正室・保姫、安永元年(1772年)に浄岸院が死去し、将軍家・一橋家との縁が薄れることで再びお手伝い普請など財政の負担が増えることを恐れた島津家側からの働きによるという。当時の一橋家の家老は田沼意次の弟・田沼意誠で、一橋家を通じて幕閣に働きかけるのが主目的であったとされる。 参考文献『近世国家の支配構造』(雄山閣ISBN 4639005814「松平定信の入閣を巡る一橋治斉と御三家の提携」高澤憲治