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源道方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 道方
時代 平安時代中期
生誕 安和元年(968年
死没 長久5年9月25日1044年10月18日
官位 正二位権中納言
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇後朱雀天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源重信、母:源高明の娘
兄弟 致方相方道方宣方乗方藤原隆家
源国盛の娘
経長経信経親経隆、円信
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源 道方(みなもと の みちかた)は、平安時代中期の公卿宇多源氏左大臣源重信の五男。官位正二位権中納言

経歴

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生後間もない安和2年(969年)に安和の変により祖父・源高明が失脚するが昇進にはあまり影響はなく、一条朝初頭の寛和2年(986年従五位下叙爵し、永延元年(987年侍従に任官する。右兵衛権佐を経て、永祚2年(990年少納言に任ぜられると、その功労により正暦4年(993年)従五位上、長徳4年(998年正五位下と昇進し、この間五位蔵人にも任ぜられている。

長徳4年(998年)左少弁に遷ると、長保元年(999年)右中弁、長保2年(1000年従四位下次いで従四位上、長保3年(1001年)権左中弁、寛弘元年(1004年正四位下、寛弘2年(1005年)左中弁、寛弘4年(1007年正四位上蔵人頭、寛弘6年(1009年)右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。またこの間の長保4年(1002年宮内卿を兼ね、30年以上に亘ってこれを務めた。

寛弘8年(1011年)6月の三条天皇即位後も引き続き蔵人頭に留任する。同年12月に行われた参議任官の人事において、頭弁であった道方は有力候補であったが、左大弁・藤原説孝が三条天皇の意向により非参議に留め置かれていたために、下僚である道方の昇任は見送られ、代わりに従四位下に過ぎない蔵人頭兼修理大夫藤原通任皇后藤原娍子の弟)が参議に任ぜられた[1]。翌寛弘9年(1012年)道方は参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列す。議政官の傍らで弁官・宮内卿・勘解由長官などを兼帯し、長和2年(1013年)には正月に従三位、12月に正三位と続けて昇叙されている。

後一条朝寛仁2年(1018年従二位、寛仁4年(1020年権中納言に叙任されるが、その後の昇進は停滞する。長元2年(1029年正二位大宰権帥に叙任されて大宰府に赴任し、長元6年(1033年)までこれを務めた。長元8年(1035年)長く務めた宮内卿を辞して民部卿に遷る。

長久4年(1043年)子息の経親を備前守に任官させる代わりに致仕長久5年(1044年)9月25日薨去享年77。最終官位は前権中納言正二位。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『権記』寛弘8年12月18日条
  2. ^ 『小右記』
  3. ^ 『小右記』万寿4年7月19日
  4. ^ 平林盛得・小池一行『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』, 2008, 笠間書院, pp. 27-28

参考文献

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年