渋沢雅明
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澁澤 雅󠄂明󠄁 | |
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生誕 |
1954年9月14日 日本・東京都 |
死没 |
2016年2月20日(61歳没) アメリカ合衆国・カリフォルニア州 |
墓地 | 谷中霊園 |
出身校 | 上智大学 |
親 |
父・渋沢雅英 母・渋沢房子[1] |
親戚 |
高祖父:渋沢栄一 曾祖父:渋沢篤二 高祖父:岩崎弥太郎 曾祖父:木内重四郎 祖父:渋沢敬三 大叔父:渋沢信雄 大叔父:渋沢智雄 大伯父:木内信胤 叔母:服部黎子 叔父:服部勉 叔従父:渋沢裕 又従弟:渋沢健 又従弟:木内孝胤 |
渋沢 雅明(しぶさわ まさあき、旧字体:澁澤 雅󠄂明󠄁、1954年〈昭和29年〉9月14日 - 2016年〈平成28年〉2月20日 )は、渋沢家4代目[2]。
父は渋沢雅英[2]。祖父は渋沢敬三[2]、曾祖父は渋沢篤二、高祖父は渋沢栄一[2](いずれも父の父方)。高祖父に岩崎弥太郎(父の母方)がいる[3]。姉は福祉学者の渋沢田鶴子[2]。叔母に生物学者の服部黎子がいる。親戚に元ソニー取締役の渋沢裕がいる。
経歴
[編集]1954年9月14日、渋沢栄一の嫡曾孫・渋沢雅英の長男として誕生[2]。名づけ親は祖父の渋沢敬三であった[2]。雅明幼少期から父の雅英はMRA(道徳再武装運動)に従事していたため、雅明自身もMRA国際移動学校との交流があった。上智大学卒業。
2016年2月20日、アメリカのカリフォルニア州にて死去。満61歳没(享年63)。
家族・系譜
[編集]- 高祖父・栄一(1840年 - 1931年、子爵、第一銀行頭取、東京市養育院長) - 住所は東京市深川区福住町から、日本橋区兜町、東京府北豊島郡滝野川町西ケ原。
- 高祖母・千代(1841年 - 1882年、尾高惇忠の妹、栄一の従妹)- 栄一同郷幼馴染み、祖父・篤二の実母。
- 曾祖母・敦子(1880年 - 1943年、伯爵・橋本実梁の娘で、橋本実頴の妹) - 夫篤二の廃嫡が正式に決まった直後に敬三ら3人の子供を連れて三田綱町の屋敷を出て、数年間にわたり本郷西方町、高輪車町、駒込神明町などの小さな借家を転々とする。
- 曾祖父・篤二
- 明治5年(1872年)生 - 1932年(昭和7年)10月没。
- 栄一・千代夫妻の長男。10歳で母・千代を亡くし、父・栄一が再婚したため、姉の穂積歌子、陳重夫婦に養育される。1886年、14歳で龍門社社長となり『龍門雑誌』刊行開始。1892年、20歳で第五高等学校中退、栄一に謹慎を命じられたのち、1895年、23歳で結婚、翌1896年、敬三誕生。翌1897年、栄一により渋沢家直轄事業として澁澤倉庫部が設立され、倉庫部長に就任(のち取締役会長)。1899年、義兄穂積陳重の渡欧に随行、各国を歴訪し帰国後、第一銀行に勤務<。趣味多く、写真撮影、常磐津、都都逸なども玄人はだしの才人で、1911年には新聞に新橋芸者・玉蝶(本名・岩本イト、1887年 - 1955年)との仲が報じられる。敬三が18歳となった1913年に栄一の決定により篤二を廃嫡とし、篤二長男の敬三を嫡孫とした。篤二が一族の長となるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の篤二と、その異母弟らとの家督を巡る争いの芽を摘むための措置をとったものとも考えられている[誰によって?]
- 祖父・敬三(1896年 - 1963年、子爵、渋沢同族社長。澁澤倉庫取締役、第一銀行副頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣) - 東京市深川福住町生まれ。
- 父・雅英
- 1925年(大正14年)2月生。
- 公益財団法人渋沢栄一記念財団相談役。ロンドンで生まれ、武蔵高等学校 (旧制)、前橋陸軍予備士官学校、陸軍少尉を経て東京大学農学部卒業、東京食品ロンドン駐在員を一年で辞し、米国でキリスト教系の道徳再武装(MRA)運動に専従、帰国後MRAアジアセンターの語学学校経営など同団体の活動を続け、1994年から2003年には、曾祖父・渋沢栄一が設立に関わった東京女学館の第12代館長に就任。1997年から2020年まで、公益財団法人渋沢栄一記念財団理事長。『父・渋沢敬三』など著書多数。2023年1月の鮫島純子の死去により[4]生前の栄一と面識ある存命子孫は雅英1人のみとなっている。
- 母・房子(1929年-2017年)。
- 姉・田鶴子(1952年-)。渋沢栄一記念財団理事、MRAハウス評議員。
- 親戚
系図
[編集]→「渋沢氏 § 系図」を参照
脚注
[編集]- ^ 父・渋沢敬三 〔6〕 / 渋沢雅英 渋沢敬三アーカイブ
- ^ a b c d e f g 父・渋沢敬三 〔6〕 / 渋沢雅英 渋沢敬三アーカイブ
- ^ 父・渋沢敬三 〔1〕 / 渋沢雅英 渋沢敬三アーカイブ
- ^ https://ameblo.jp/nobu630/entry-12787181954.html