深水藤子
ふかみず ふじこ 深水 藤子 | |
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1937年頃の深水藤子 | |
本名 | 安田 富士子 |
別名義 | 長田 富士絵 |
生年月日 | 1916年4月10日 |
没年月日 | 2011年12月18日(95歳没) |
出生地 | 日本 東京府荏原郡品川町 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画 |
配偶者 | 中園忠淳 |
主な作品 | |
『丹下左膳余話 百萬両の壺』 『街の入墨者』 『夢みるように眠りたい』 |
深水 藤子(ふかみず ふじこ、1916年4月10日 - 2011年12月18日[1])は、日本の映画女優である。画家の伊東深水が同芸名の名づけ親で、本名は安田 富士子(やすだ ふじこ、旧姓)。戦前の日活京都の時代劇スター女優であり、戦後は沈黙したが、林海象監督の手によりふたたびスクリーンに登場した。
来歴・人物
[編集]1916年(大正5年)4月10日、東京府荏原郡品川町大字北品川宿(現在の品川区北品川1丁目)に、江戸時代末期から続く蕎麦屋「養老庵」を営む父・松太郎、母・まんの長女として生まれる。2人兄妹の兄である長男はのちの映画監督の安田公義である[2]。
7歳から花柳流舞踊を習いはじめ、1929年(昭和4年)に東海尋常小学校を卒業して東京高等女学校(現・東京女子学園高等学校)へ進学するも、1931年(昭和6年)に中退、同年5月に松竹蒲田撮影所に入社、研修生となる。長田 富士絵(ながた ふじえ)名義で翌1932年(昭和7年)2月4日に公開された斎藤寅次郎監督のスラップスティック・コメディ『三太郎満州出征』のヒロインに抜擢されるが、あまり目立たず、松竹下加茂撮影所への異動を勧められるが両親に反対される。同年10月の日活太秦撮影所の募集に応募、審査員のひとりだった画家の伊東深水(のちの女優朝丘雪路の父)の激しいプッシュで合格者7人に残る。伊東が「深水藤子」の名を命名するにおよび、両親は京都行きを賛成した[2]。
同年11月、日活太秦の時代劇部に入社、さっそく12月1日公開の『煩悩秘文書』三部作(監督渡辺邦男)に出演、大河内伝次郎の相手役に抜擢された。半年後の1933年(昭和8年)5月に現代劇部に転向、大谷俊夫監督の『娘十六』、倉田文人監督の『恋知る頃』に主演した。翌1934年(昭和9年)4月の現代劇部の多摩川撮影所移転にともない東京に戻り、主演を含め3本に出演したところで同年9月にP.C.L.映画製作所の引き抜きに遭い、いったんは日活に辞表を提出する。最終的には日活に残留、同年12月には日活京都撮影所(日活太秦から名称変更後)に異動、さっそく稲垣浩監督のトーキー、『新選組 前後篇』に出演した[2]。
1935年(昭和10年)、19歳になり、山中貞雄監督の『丹下左膳余話 百萬両の壺』に出演、ひきつづき稲垣・山中共同監督作品『関の弥太ッぺ』の大河内の相手役に抜擢される。山中監督の『街の入墨者』に抜擢されるにいたり、山中とのロマンスが噂されるようになる。同作は同年の「キネマ旬報」誌ベストテン2位に選ばれたが、プリントは現存しない。同年から足掛け2年がかりの稲垣監督の超大作『大菩薩峠』に出演、花井蘭子と双璧の日活時代劇スターとなった。翌1936年(昭和11年)1月8日のスタジオ開きで、花井は功労賞、深水は技芸賞を受賞した[2]。
1937年(昭和12年)、ひさしぶりに山中監督の『森の石松』に出演、山中は同作を最後に日活を退社、P.C.L.に移籍する。移籍後第1作の『人情紙風船』を最後に、8月に応召、翌1938年(昭和13年)9月17日に戦死してしまう。深水は山中との結婚を心に決めていたという説がある[2]。
プライヴェイトな別離とは裏腹に、当時の深水はまさに絶頂期で、1937年6月の花井の退社・J.O.スタヂオ入り以来、日活時代劇の娘役の筆頭スターの地位を独走、5月に阪東妻三郎がプロダクションを解散して日活入りすると、阪東主演、マキノ正博監督の『国定忠治』で相手役を、翌1938年1月、嵐寛寿郎がプロダクションを解散して日活入りすると、『鞍馬天狗』で共演する。阪妻・嵐寛・千恵蔵揃い踏みの『忠臣蔵』地の巻(監督池田富保)/天の巻(監督マキノ正博)、および『続水戸黄門廻国記』(監督池田富保)の同年の2大作品にも出演した[2]。
1942年(昭和17年)1月の戦時統合による大映への合併を期に退社、26歳で映画女優を引退した。このときすでに100本の映画に出演していた。川浪良太郎一座に加わり、舞台を踏んだ。戦後は大映の伊藤大輔・稲垣浩共同監督作品『東海水滸伝』(1945年)や東宝の小田基義監督作品『音楽五人男』(1947年)に顔を出したが、基本的には引退している。1951年(昭和26年)10月、中園忠淳と結婚、一男をもうけたのちに離婚した[2]。
1986年(昭和61年)、林海象監督のデビュー作『夢みるように眠りたい』、1989年(平成元年)の次作『二十世紀少年読本』に40年ぶりに出演して話題となった。
2011年12月18日静岡県にて死去。享年95。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 三太郎満州出征 1932年 監督斎藤寅次郎 ※松竹蒲田撮影所、「長田富士絵」名義
- 煩悩秘文書 流星篇 1932年 監督渡辺邦男、主演大河内伝次郎 ※日活太秦撮影所、以下「深水藤子」名義
- 煩悩秘文書 剣光篇 1932年 監督渡辺邦男、主演大河内伝次郎
- 煩悩秘文書 解脱篇 1933年 監督渡辺邦男、主演大河内伝次郎
- 娘十六 1933年 監督大谷俊夫
- 恋知る頃 1933年 監督倉田文人
- 新選組 前後篇 1934年 監督稲垣浩
- 丹下左膳余話 百萬両の壺 1935年 監督山中貞雄、原作林不忘、主演大河内伝次郎
- 関の弥太ッぺ 1935年 監督稲垣浩・山中貞雄、原作長谷川伸、主演大河内伝次郎
- 街の入墨者 1935年 監督山中貞雄、主演河原崎長十郎
- 大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻 1935年 監督稲垣浩、応援監督山中貞雄・荒井良平、原作中里介山、主演大河内伝次郎
- 大菩薩峠 鈴鹿山の巻 / 壬生島原の巻 1936年 監督稲垣浩、原作中里介山、主演大河内伝次郎
- 森の石松 1937年 監督山中貞雄、主演黒川弥太郎
- 国定忠治 1937年 監督マキノ正博、主演阪東妻三郎
- 鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻 1938年 監督マキノ正博・松田定次、主演嵐寛寿郎
- 忠臣蔵 地の巻 1938年 監督池田富保、主演阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵
- 忠臣蔵 天の巻 1938年 監督マキノ正博、主演阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵
- 続水戸黄門廻国記 1938年 監督池田富保、主演阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵
- 鴛鴦歌合戦 1939年 監督マキノ正博、主演片岡千恵蔵、市川春代、ディック・ミネ
- 東海水滸伝 1945年 監督伊藤大輔・稲垣浩、主演阪東妻三郎、逢初夢子 ※大映
- 音楽五人男 1947年 監督小田基義、主演古川緑波、藤山一郎 ※東宝
- 夢みるように眠りたい 1986年 監督林海象、主演佐野史郎 ※映像探偵社
- 二十世紀少年読本 1989年 監督林海象、主演三上博史 ※CBSソニー・グループ
脚注
[編集]- ^ 『キネマ旬報』 2012年2月下旬決算特別号 映画界物故人リスト
- ^ a b c d e f g 『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報、1980年)の「深水藤子」の項の記述(p.565-567)を参照。同項執筆は清水晶。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 長田富士絵 - 日本映画データベース
- 深水藤子 - 日本映画データベース
- Fujiko Fukamizu - IMDb