ソルティー・シュガー
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(池田謙吉から転送)
ソルティー・シュガー | |
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出身地 | 日本 |
ジャンル | フォークソング |
活動期間 | 1969年 - 1971年 |
レーベル | ビクター |
メンバー |
山本コウタロー 佐藤敏夫 手塚通夫 高橋隆 |
旧メンバー | 池田謙吉 |
ソルティー・シュガーは、日本のフォークシンガーグループ。
コミックバンドとも言われるが、本来はカレッジ・フォークに属する。
概要
[編集]東京都立日比谷高等学校を中心にステージに出ていた高校生バンド、ワイリット・マンが前身。大学進学の時、メンバーの佐藤敏夫が抜けるに際し、その名前をバンド名に残そうということになり、佐藤敏夫→さとうとしお→砂糖と塩→シュガーアンドソルト→ソルティーシュガーとなった。
1969年(昭和44年)12月に山本・池田・手塚・高橋の幼なじみ大学生4人組グループとして「ああ大学生」でデビューしたが、売れたのはわずか3000枚だった[1]。
翌1970年に発表した「走れコウタロー」がミリオンセラーの大ヒット[1]。当初、実在の馬の名前の歌だったが、山本が練習に遅刻してばかりいるので、作詞担当の池田が走れコウタローに変えた。この曲の発表直後の5月10日に池田が21歳で急死(母親より体調不良で急きょ番組収録を休む旨の連絡があり、その後メンバーに訃報が伝えられた)、佐藤が1年間という約束で再加入、1970年第12回日本レコード大賞の新人賞を獲得した。また、「日本国有鉄道5月10日の歌」「ハナゲの唄」などのコミックソングも発表した。約束通りわずか1年後の1971年日本ダービーの季節に解散。
山本はその後武蔵野タンポポ団、ソロ活動を経て、山本コウタローとウィークエンドを結成。1974年には大ヒットソング「岬めぐり」を発表した。また1976年、山本以外の3人で再結成し、ソルティー・シュガーIIの名前でシングルを一枚発表した。
メンバー
[編集]ディスコグラフィー
[編集]シングル
[編集]- ああ大学生 / 日本国有鉄道5月10日の歌 (1969年12月)
- B面は1969年5月10日の日本国有鉄道の運賃改定を歌った歌。原曲はアメリカのフォークグループ、キングストン・トリオの「MTA」で、ボストンの地下鉄の運賃値上げの歌である。
- 走れコウタロー / 橋 (1970年7月5日)
- オリコン1位
- ハナゲの唄 / ふるさとをはなれて (1970年12月5日)
- ひがしのひとしのカバー。別題「ハナゲの伸長度に関する社会科学的考察」。オリコン89位
- 泣くなゴンベー / 沖縄の願い (1971年)
- 昭和哀歌 / ワイフをさがして (1976年) ソルティー・シュガーII名義
アルバム
[編集]- 走れコウタロー/ソルティーシュガー茶歌集 (1970年)
- CD化:1992年9月23日 (ビクター VICL-23052)
- ソルティー・サヨナラ・コンサート/旅立ち (1971年10月5日)
- 1971年6月30日、日本青年館ホールにおける解散コンサートのライヴ録音。
- CD化:2006年12月20日 (ビクター VICL-62202)
オムニバス
[編集]- V.A./ウッド・スモッグ・コンサート (1971年8月5日)
- V.A./そうるふぃっと CD-4 こんさあと (1972年12月) 4チャンネルレコード
ソノシート
[編集]- スヤスヤコウタロー
- ナショナル電気目覚時計の販促用。1曲入り。
その他
[編集]- 池田謙吉が亡くなった状況について、1973年頃にNHKのルポルタージュ番組で取り上げられた。睡眠時無呼吸症候群だったのではないかと考えられる。
- 佐藤敏夫は現在陶芸家として活躍している。
- 高橋隆は1976年にビクター音楽産業に入社。ディレクターとして活躍した。
- 2022年7月4日、山本コウタローが脳内出血のため73歳で死去。佐藤敏夫は自身のFacebookアカウントで山本コウタローの訃報に触れているが、その際にメンバーであった手塚通夫も故人であると語っている。
参考文献
[編集]- 『1968-1997 オリコン・チャート・ブック』オリコン、1997年
脚注
[編集]- ^ a b 富澤一誠「ソルティー・シュガー 「走れコウタロー」、ongen.net、2007年3月28日。