コンテンツにスキップ

永福寺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永福寺跡
永福寺跡の看板

座標: 北緯35度19分41秒 東経139度34分04秒 / 北緯35.32806度 東経139.56778度 / 35.32806; 139.56778

永福寺跡の位置(神奈川県内)
永福寺跡
永福寺跡
位置
地図
地図

永福寺跡(ようふくじあと[1])は、神奈川県鎌倉市二階堂(旧:鎌倉郡二階堂村)にある寺院跡。鎌倉時代初期に源頼朝中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。2階建ての仏堂であった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている[2]。また世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。

歴史

[編集]

源頼朝は1189年文治5年)9月の奥州合戦を契機に、数多の戦を供養源義経藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。造立責任者は工藤行政、建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。1192年建久3年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。

1405年応永12年)に火災に遭い[3]、のちに廃絶した。

調査

[編集]

1983年昭和58年)から開始された発掘調査で、北方から流れ込む谷川を水源とする南北200メートル、東西40 - 70メートルの苑池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂を中心に南北に阿弥陀堂薬師堂翼廊を従えた中心伽藍が確認された。このことから、伽藍全体の空間構成は無量光院をモデルにしたと考えられる[4]

現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている[5]

復元

[編集]

長らくススキが生える湿地となっていたが、史跡指定翌年の1967年(昭和43年)度から土地の公有化を進め、2007年平成19年)以降復元整備工事に着手し、2017年(平成29年)6月、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂などの基壇(基礎)と苑池の復元が完了し、公開された。

発掘データをもとに、CGによる復元も試みられている[6][7]鎌倉市湘南工科大学との 協働[8][9]

脚注

[編集]
  1. ^ 鎌倉幕府時代の当時は河内国叡福寺に習って「えいふくじ」と読んだ。
  2. ^ 史跡永福寺跡について(鎌倉市)
  3. ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村 永福寺蹟.
  4. ^ 小野健吉『日本庭園 : 空間の美の歴史』岩波書店〈岩波新書 ; 新赤版1177〉、2009年、106-108頁。ISBN 9784004311775国立国会図書館書誌ID:000010065621 
  5. ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村.
  6. ^ 永福寺 3DCGによる復元(YouTube)
  7. ^ 「AR永福寺」で、鎌倉時代の永福寺を体験鎌倉市
  8. ^ 「国指定史跡永福寺跡」のコンピューターグラフィックによる復元(武家の古都・鎌倉)
  9. ^ 大滝由明, 長澤可也, 羽切孝昌「コンピュータグラフィックによる永福寺の復原」『情報処理学会研究報告』第2005巻第25号、情報処理学会、2005年3月、127-134頁、CRID 1520572359478822528ISSN 091960722024年4月3日閲覧 

参考文献

[編集]
  • 「山之内庄二階堂村上」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之90村里部鎌倉郡巻之22、雄山閣、1932年8月、344頁。NDLJP:1179229/176 
  • 「山之内庄二階堂村下永福寺蹟」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之90村里部鎌倉郡巻之22、雄山閣、1932年8月、363 - 370頁。NDLJP:1179229/185 

関連文献

[編集]
  • 河井恒久 等編 編「巻之二 永福寺舊跡」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、27 - 28頁。NDLJP:952770/28 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]