横島由一

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 横島 由一 
Yoshikazu Yokoshima
基本情報
名前 横島 由一
生年月日 (1952-03-10) 1952年3月10日(72歳)
身長 177 cm (5 ft 10 in)
体重 65 kg (143 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県
経歴
成績
優勝回数 レギュラー12勝/シニア1勝
初優勝 ダンロップトーナメント(1976年)
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横島 由一(よこしま よしかず、1952年3月10日 - )は千葉県出身のプロゴルファー

来歴[編集]

草壁政治とは同郷で、家も2〜3分の距離で家族ぐるみの付き合いであった[1]

キャディのアルバイトをきっかけに12歳からゴルフを始め、郡司洋に師事し、野田高校卒業後の1971年に19歳でプロテスト合格[2] [3]。5年目の1976年ダンロップトーナメントで初優勝を飾りシード入りするが[4]、その後は十二指腸潰瘍を患うなど伸び悩んだ[3]1977年の産報クラシックでは2日目2番で1ホール16を叩く[3]などスランプに陥り、シード選手として定着しかけた1980年代初めには大スランプに見舞われる。

1982年から4シーズンのシード落ちを経験し[4]、シード入りには優勝しか残されていなかった1983年の大京オープンでは同郷の草壁と最終日を首位タイで迎え、「やりづらい」と何度も口にする横島はインに入ってリズムを崩し4位に沈む[1]。優勝した草壁は、1981年長野県オープン以来となるツアー8勝目に「実に複雑な心境ですね。横島が頑張って勝つのが一番だったんだろうけど……。でも僕としても手を抜くなんてできないし、2人揃って沈むのだけは嫌だった」と試合後、淡々と語り控えめな笑顔を浮かべた[1]

15シーズンも「月例暮らし」と練習に打ち込むだけの苦労の時代もあったが、無類の人柄の良さで仲間達に信任も厚く、1987年には関東オープンで涙の優勝を飾った[5]。同年の日本プロでは3日目に6番から4連続を含む7バーディー、ボギー無しの65で回り、通算5アンダーで一気に3位に上昇[3]。最終的にはデビッド・イシイアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国)、金井清一ブライアン・ジョーンズオーストラリアの旗 オーストラリア)、青木功に次ぐ5位[3]と健闘。

1990年はツアーの中盤で体調を崩して3ヶ月も戦列を離れ、一時は生命の危機も囁かれたが乗り越え、公傷制度の適用もあって、1991年ツアーの序盤で健闘し、「5試合で90年と通算で1478万円を超えること」の条件を満たしただけではなく、秋のラークカップでは尾崎直道ロジャー・マッケイオーストラリアの旗 オーストラリア)らを抑える[4]見事な逆転優勝でランキングも11位と1989年の8位に次ぐ成績を残した[5]

大病の経験から健康維持には人一倍気を配り、1991年と1992年はいずれもツアー30試合以上をこなした[5]。1991年は優勝も2度あるが予選落ち8試合、棄権2試合であったのが、1992年ツアーでは予選落ち2試合だけ、棄権は4試合になった。平均ストロークも20位の72.01、パー72換算で19位の72.21と前年より良くなった[5]。ショートゲームにも定評があったほか、パワーフェードといわれる長打力を武器に、1992年のイーグル数10個は文句なしの1位であった[5]

40代後半になって、ツアー選手としての選手生活に限界を感じると、そんな時に鈴木規夫から「裏方としてツアー競技を手伝ってくれないか」と誘われた[2]。横島はシニアの資格を得ていたが、「長年お世話になってきたツアーに恩返しをしたい」という思いから、2000年から日本ゴルフツアー機構競技委員に就任[2]。その後はトーナメントディレクターを務め、三井住友VISA太平洋マスターズ太平洋クラブ御殿場コースに行った時に、同コースの支配人から「プロゴルファーの支配人を増やしていきたい」という話があった[2]。当時の太平洋クラブではプロゴルファーの佐藤英之が支配人をするなど、プロゴルファーを支配人として受け入れる体制ができつつあったため、横島に声がかかった[2]

2003年からは茨城県小美玉市の太平洋クラブ美野里コースで支配人となったが、2004年からは支配人業と並行してシニアツアー参戦[6]。支配人として多忙な中、開幕戦のキャッスルヒルオープン6位タイ、アデランスウェルネスオープン単独2位と好成績をキープしての3試合目、ファンケルシニアクラシックで初勝利の快挙を演じる[6]。この大会では高橋勝成が4連覇の偉業達成なるかに注目が集まる中、横島は2日目に7アンダー65の大会記録をマーク[7]。中盤にはスコアを崩してしまい、最終日に追い上げてきた青木基正に並ばれたが、終盤の17、18番で連続バーディを記録[8]。通算9アンダーで見事にシニア初優勝を飾り、一方の高橋は初日スコア「77」の出遅れが響き、最終日追い上げを図るも通算イーブンパーの16位タイで4連覇を逃した[8]。その他では尾崎健夫、この年からアメリカチャンピオンズツアーに挑戦している飯合肇は共に1オーバー22位タイで競技を終えた[8]。レギュラー時代の1997年に札幌オープン以来7年ぶり、ツアーでは1991年のラークカップ以来13年ぶりの優勝を果たし、賞金ランキングでも1位に立つという活躍であった[6]。優勝後は美野里コースの社員達が喜んだだけでなく、予約の電話が殺到して嬉しい悲鳴も上がった[6]。この1勝がものをいって、獲得賞金2274万3000円で高橋が狙った5年連続賞金王を阻止して初の賞金王に輝いた[7]。同年には栃木県芳賀郡益子町の益子コースに転勤となり、その後は業務統括部で新しいセクションの統括責任者となった[2]

2005年は5試合に出場し、日本シニアオープンの11位タイがベストであった[9]。同年は41位、2006年は38位と賞金ランクは低迷した[10]

主な優勝[編集]

レギュラー[編集]

シニア[編集]

  • 2004年 - ファンケルシニアクラシック

脚注[編集]

  1. ^ a b c 【ニッポンゴルフ初物語】"第1回大京オープン"、29年前の壮絶なシード権争いを振り返る!
  2. ^ a b c d e f My Golf Business 横島由一さん太平洋クラブ業務統括部
  3. ^ a b c d e 第55回日本プロゴルフ選手権(1987年)
  4. ^ a b c 2004年シニアプロフィール
  5. ^ a b c d e 日本ゴルフツアー機構 - 横島 由一選手のプロフィール - Japan Golf Tour
  6. ^ a b c d スポットライト 今期よりシニアツアーに参戦、横島由一プロ
  7. ^ a b 2005年シニア選手紹介
  8. ^ a b c 国内シニア「ファンケルシニアクラシック」/横島由一が優勝
  9. ^ 2006年シニア選手紹介
  10. ^ 2007年シニア選手紹介

外部リンク[編集]