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岩田惣三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いわた そうざぶろう

岩田 惣三郎
生誕 岩田松之丞
天保14年3月15日1843年4月14日
尾張国中島郡奥村瀬古(愛知県一宮市奥町
死没 1933年昭和8年)8月24日
京都府京都市下京区不明門通万年寺
死因 慢性腎臓病
記念碑 岩田惣三郎翁頌徳碑(一宮市立奥中学校
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
別名 岩惣、岩田本願寺、寿楽
宗教 浄土真宗真宗大谷派
子供 岩田スミ、松之助、つね、宗次郎、千代三郎
岩田常右衛門
親戚 岩田正一(養子)、保太郎(甥)、常右衛門(養甥)
受賞 紺綬褒章
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岩田 惣三郎(いわた そうざぶろう、天保14年3月15日1843年4月14日) - 1933年昭和8年)8月24日)は戦前日本の実業家、相場師。尾州銀行・甲子興業・岩田商事・中外綿業を設立し、摂津紡績(のちの大日本紡績)の設立にもくわわる。大阪三品取引所大日本紡績真宗大谷派でも重役を歴任した。

生涯

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鐘淵紡績引札
岩田惣三郎

天保14年(1843年)3月15日尾張国中島郡奥村瀬古[1]愛知県一宮市奥町[2]に岩田常右衛門の次男として生まれた[3]。幼名は松之丞[4]嘉永4年(1851年)春から安政3年(1856年)末まで同郡野府村開明村円光寺寺子屋で読み書きを学んだ[1]

明治3年(1870年)3月分家し[3]一宮名古屋を往復して綿糸綿布を商った[1]。1874年(明治7年)大阪に出て、兄常右衛門と船場に店舗を構えた[5]。1881年(明治14年)7月北久太郎町二丁目11番屋敷に独立し[5]、外国商館と交渉してインド糸・イギリス製綿糸を輸入し、事業を拡大した[6]

1889年(明治22年)4月15日摂津紡績の設立発起人となり、初代取締役に就任し[7]、女工への傘の支給や[8]、僧侶を招いての法話を行った[9]。一度取締役を辞任するも、業績が悪化すると取締役に復帰し[10]、監査役も務めた[11]

1893年(明治26年)末、中村惣兵衛・今西林三郎・山本治兵衛・岩田孫太郎等と発起人惣代として[12]内外綿花、綛糸、木綿取引所(後に大阪三品取引所)設立に参加し、理事を27年間、監事を3年間務めつつ、これら三品の取引で監事田附政次郎と鎬を削った[13]。1896年(明治29年)2月2日尾州銀行を創立して取締役、頭取を務めたほか[14]、甲子興業を設立して社長となり、大阪商業会議所議員も務めた[15]

1918年(大正7年)6月1日摂津紡績が尼崎紡績と合併して大日本紡績となり、引き続き取締役を務めた[11]。9月個人事業として行っていた綿糸販売業を株式会社に改組し、岩田商事を設立した[16]。また、この頃大安生命保険取締役を兼ねた[17]

第一次世界大戦時、鐘淵紡績と1年半の長期売買契約を結んだ[18]。1918年(大正7年)215円に暴落した綿糸を買い入れると、翌年には700円に値上りして莫大な利益を得、70割超の配当を行った[19]。1919年(大正8年)頃茂木惣兵衛 (3代目)と中外綿業を設立し、長男松之助を社長とし、自らは顧問を務めた[20]

1920年(大正9年)3月戦後恐慌で綿糸が暴落し、中外綿業は破綻した[21]。長期先物約定により岩田商事も多額の債務を負ったが[22]、手形の代金決済を拒否すると、1921年(大正10年)2月大阪合同紡績東洋紡績鐘淵紡績大日本紡績に訴訟を提起され[23]日本銀行結城豊太郎の仲裁を受けた[22]。岩田商事は破産を免れたものの、惣三郎は業界の信用を失って「因業老人」と揶揄され、主導権を三男宗次郎に譲り[24]、1921年(大正10年)1月30日大日本紡績取締役も辞任した[11]

1930年(昭和5年)米寿に当たり三品取引所理事を引退した[25]。晩年は京都市下京区不明門通万年寺角の別邸に隠居し[15]、寿楽と号して趣味に興じた[26]。囲碁は初段格といい、関西の実業家大会に出場、浄瑠璃も自ら演じて九十九会を主導したほか、京都の書家東南沢堂に書道を習い、新聞社主催の実業家余技大会に出品した[26]。1933年(昭和8年)8月24日慢性腎臓病で死去した[15]

宗教活動

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先祖代々真宗大谷派を信仰し[27]、自身も同派の運営に深く関与し、岩田本願寺の異名を取った[25]。1893年(明治26年)1月大谷派本願寺世話方、1909年(明治42年)6月会計部相談役を務め、経理委員を引き受けたほか、相続講参与・財務監査、本廟護持財団法人理事・参議員を兼任し、1920年(大正9年)12月20日本山総講顕・財務顧問に就任した[28]

私立大谷女学校大谷高等女学校大谷女子専門学校等の教育事業にも多額の寄付を行い、これら3校を統括する財団法人大谷学園が設立されると理事に就任した[29]

記念碑

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岩田惣三郎翁寿像

栄典

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親族

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先祖は代々農業を営んだ[1]

  • 父:岩田常右衛門[1]
  • 母:岩田利世[1]
  • 兄:岩田常右衛門[5]天保9年(1838年)6月生[3]
    • 甥:岩田保太郎 - 常右衛門長男。慶応元年(1865年)3月15日生。大阪三品取引所監査役、飾磨紡績代表社員[3]、岩田常商店取締役[32]
    • 養甥:岩田常右衛門 - 岩田又四郎次男。明治元年(1868年)6月6日生。幼名は金三郎[17]。尾州銀行・由良染料・岩田商業・中京貿易取締役[33]、大安生命保険監査役[34]、岩田常商店代表取締役、宝塚ホテル取締役兼支配人、宝塚植物園取締役[35]
  • 長女:岩田スミ – 明治元年(1868年)12月生。正一妻[3]
  • 養子:岩田正一 – 島津彦八四男。万延元年(1860年)5月28日生[36]。岩田商事取締役、中京貿易監査役、大阪三品取引所仲買人[37]、尾州銀行[38]・甲子興業監査役[39]
  • 長男:岩田松之助 – 明治5年(1872年)1月生。岩田商事・中京貿易・中外綿業取締役[40]
    • 孫:岩田宗太郎 - 松之助長男。1901年(明治34年)4月生。甲子興業取締役、尾州銀行監査役[39]
  • 次女:岩田つね – 1878年(明治11年)1月生。岩田悦次郎妻[41]
  • 三男:岩田宗次郎 – 1887年(明治20年)7月生。尾州銀行・岩田商事・中京貿易・中外綿業取締役、南海紡績監査役[34]、甲子興業・長崎紡績取締役、日本レイヨン監査役[39]、岩田商事社長、大日本紡績会長[42]。1953年(昭和28年)9月13日没[42]
  • 四男:岩田千代三郎 – 1889年(明治22年)7月生。京都高等蚕業学校卒。会社員[35]
  • 五男:岩田金之助 – 1894年(明治27年)1月生。大阪府田代豊養子。岩田商事・甲子興業取締役[43]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 奥町 1933, p. 1.
  2. ^ 鍋島 2005, p. 156.
  3. ^ a b c d e 人事興信所 1911, p. い138.
  4. ^ a b 奥町 1936, pp. 544–545.
  5. ^ a b c 奥町 1933, p. 2.
  6. ^ 奥町 1933, p. 3.
  7. ^ 奥町 1933, p. 4.
  8. ^ 奥町 1933, p. 5.
  9. ^ 奥町 1933, p. 17.
  10. ^ 奥町 1933, p. 6.
  11. ^ a b c 奥町 1933, p. 7.
  12. ^ 奥町 1933, p. 8.
  13. ^ 鍋島 2005, pp. 157–158.
  14. ^ 奥町 1933, p. 9.
  15. ^ a b c 実業之世界社 1936, p. 190.
  16. ^ 奥町 1933, p. 10.
  17. ^ a b 人事興信所 1918, p. い104.
  18. ^ 鍋島 2005, p. 164.
  19. ^ 岡村 1924, pp. 428–429.
  20. ^ 岡村 1924, pp. 425–427.
  21. ^ 岡村 1924, pp. 425–426.
  22. ^ a b 岡村 1924, p. 427.
  23. ^ “岩田商事遂に破産を申請さる 四大紡績会社から訴訟 債務一千万円”. 大阪朝日新聞. (1921年2月3日). https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100254437 
  24. ^ 鍋島 2005, pp. 160–161.
  25. ^ a b 鍋島 2005, p. 158.
  26. ^ a b 奥町 1933, p. 29.
  27. ^ 奥町 1933, p. 14.
  28. ^ 奥町 1933, p. 16.
  29. ^ 奥町 1933, pp. 11–12.
  30. ^ 7.15 郷土の偉人 ~岩田惣三郎翁~”. 校長室から. 一宮市立奥中学校 (2016年7月15日). 2018年5月3日閲覧。
  31. ^ 奥町 1933, p. 24.
  32. ^ 人事興信所 1928, p. イ246.
  33. ^ 人事興信所 1921, p. い91.
  34. ^ a b 人事興信所 1925, p. い98.
  35. ^ a b 人事興信所 1931, p. イ277.
  36. ^ 人事興信所 1915, p. い77.
  37. ^ 人事興信所 1921, p. い93.
  38. ^ 人事興信所 1925, p. い100.
  39. ^ a b c 人事興信所 1928, p. イ243.
  40. ^ 人事興信所 1921, p. い92.
  41. ^ 人事興信所 1915, p. い76.
  42. ^ a b 鍋島 2005, p. 165.
  43. ^ 人事興信所 1931, p. タ14.

参考文献

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  • 岡村周量『黄金の渦巻へ』蒼天書房、1924年5月。NDLJP:972105/226 
  • 奥町教育会『岩田惣三郎翁』奥町教育会、1933年10月。NDLJP:1098782 
  • 実業之世界社編輯局『財界物故傑物伝』 上巻、実業之世界社、1936年6月。NDLJP:1228924/123 
  • 奥町教育会『奥町誌』奥町教育会、1936年9月。NDLJP:1239032/302 
  • 鍋島高明『賭けた 儲けた 生きた ―紅花大尽からアラビア太郎まで』五台山書房、2005年4月。 
  • 人事興信所『人事興信録』(第3版)人事興信所、1911年。NDLJP:779812/141 
  • 人事興信所『人事興信録』(第4版)人事興信所、1915年。NDLJP:1703995/82 
  • 人事興信所『人事興信録』(第5版)人事興信所、1918年。NDLJP:1704046/123 
  • 人事興信所『人事興信録』(第6版)人事興信所、1921年。NDLJP:1704027/101 
  • 人事興信所『人事興信録』(第7版)人事興信所、1925年。NDLJP:1704004/114 
  • 人事興信所『人事興信録』(第8版)人事興信所、1928年。NDLJP:1078684/259 
  • 人事興信所『人事興信録』(第9版)人事興信所、1931年。NDLJP:1078695/275