大山村 (千葉県)
おおやまむら 大山村 | |
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現代の大山千枚田(大字釜沼。2016年5月) | |
廃止日 | 1955年3月31日 |
廃止理由 |
新設合併 大山村、吉尾村、主基村 → 長狭町 |
現在の自治体 | 鴨川市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 千葉県 |
郡 | 安房郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 21.13 km2 |
総人口 |
2,794人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 安房郡勝山町、富山町、丸山町、吉尾村、君津郡関豊村、環村 |
大山村役場 | |
所在地 | 千葉県安房郡大山村 |
座標 | 北緯35度08分39秒 東経139度58分06秒 / 北緯35.14408度 東経139.96836度座標: 北緯35度08分39秒 東経139度58分06秒 / 北緯35.14408度 東経139.96836度 |
ウィキプロジェクト |
大山村(おおやまむら)は、千葉県安房郡(長狭郡)にかつて存在した村である。
現在の鴨川市の西部に位置している。1889年(明治22年)、町村制施行にともない編成され、昭和の大合併により廃止された。
地理
[編集]現在の鴨川市域(ひいては、かつての長狭郡域)で最も西にあたる地域である。長狭平野の最も奥まった場所で、加茂川の上流にあたり、房総半島を横断する古い交通路である長狭街道が通る。
現在の鴨川市域を、鴨川市成立時およびその後の合併時の町村によって4地区に区分する場合、旧大山村の地域は「長狭地区」の一部に位置付けられている。鴨川市域を町村制施行当時の町村(旧町村)によって12地区に区分する場合は「大山地区」とされ[1]、現在の大字では平塚(ひらつか)・金束(こづか)・古畑(こばた)・奈良林(ならばやし)・佐野(さの)・釜沼(かまぬま)・大山平塚(おおやまひらつか)が含まれる[1][注釈 1]。
1926年(大正15年)時点の大山村は、東に吉尾村、西は佐久間村および君津郡駒山村、南は嶺岡山脈を隔てて丸村・平群村、北は君津郡豊岡村・駒山村に接していた[3]:1085。当時は全村を平塚・金束・古畑・奈良林・佐野・釜沼の6区に分けていた[3]:1085。
歴史
[編集]前近代
[編集]平塚にある大山寺と高蔵神社は、神亀元年(724年)に良弁によって建立されたと伝承される古い寺社である[4]。
江戸時代には、嶺岡山地周辺には江戸幕府の嶺岡牧が置かれた。のちの大山村の村域南部は嶺岡西一牧・嶺岡西二牧とされていた[5]。
近代
[編集]1878年(明治11年)、千葉県に郡区町村編制法が施行されると、平塚村は一村で戸長役場を置き、古畑村・奈良林村・佐野村・金束村は連合戸長役場を金束村に、釜沼村・大幡村・北風原村[注釈 2]は連合戸長役場を大幡村に置いた[3]:1087。1884年(明治17年)に戸長役場の管轄変更が行われた際[6]、平塚村と金束村が連合し、古畑村・奈良林村・佐野村は釜沼村・大幡村・北風原村と連合して大幡村に連合戸長役場を置いた[3]:1087。
1889年、町村制の施行により平塚村・金束村・古畑村・佐野村・釜沼村・奈良林村および嶺岡西牧[注釈 3]が合併して大山村が発足した[6]。新村名は、平塚村字大山にある郷社「大山神社」(高蔵神社)[注釈 4]から採用された[6]。村役場は村域の中央にあたる金束に置かれた[3]:1087。
行政区画・自治体沿革
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により平塚村、金束村、古畑村、佐野村、釜沼村、奈良林村および嶺岡西牧が合併して長狭郡大山村が発足。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 長狭郡が安房郡に編入。
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 吉尾村、主基村と合併し、長狭町を新設。同日大山村廃止。
村長
[編集]- 2代 安田勲:1889年10月 - 1890年3月
経済
[編集]1888年(明治21年)に記された分合取調文書によれば、住民はおおむね農業で生計を立てていたとある[6]。
1926年(大正15年)の『安房郡誌』によれば、「土地豊饒にして農耕に適す」とされる村の主たる生業は農業であり、[3]:1088。畜産・養蚕・園芸・薪炭・養鶏等の副業は「甚だ盛ん」とされている[3]:1088。特に畜牛と養蚕は郡内屈指の地位にあるとされる[3]:1088。
畜産業・乳業
[編集]峯岡牧(嶺岡牧場)周辺は日本の酪農史で大きな役割を果たした地域であった。明治20年代頃からは民間でも酪農業が盛んになり[7]、大正期から昭和戦前期にかけ、安房地方は日本の煉乳生産の中心地のひとつとなった[8]。
当地出身の竹沢弥太郎は、1879年(明治12年)に東京に出て築地で牛乳店を開いた[7]。安房出身者が東京で牛乳販売に携わった早い事例とされる[7]。
竹沢弥太郎は1881年(明治14年)に米国産短角種の種雄牛1頭を導入するなど[7]畜産業において先駆的な役割を果たし、1887年(明治20年)に有志が設立した安房種畜組合では頭取となった[7]。竹沢は1890年(明治23年)に渡米してホルスタイン種50頭を輸入し、郡内で販売したり農家に預託したりするなど普及に努めた[7]。1912年(明治45年)には、千葉県畜牛共進会が大山村で開催された[7]。
1893年(明治26年)、東京海陸社[7]の根岸新三郎が、金束に「安房煉乳所」を創設、練乳・バターの生産に乗り出した[8]。これは安房郡で最初に設立された煉乳工場であった[8]。しかし安房煉乳所は経営不振のため経営者が転々とし、1903年(明治36年)磯貝岩次郎[注釈 5]の所有となり(磯貝煉乳所に改称)、ようやく経営が安定した[8]。磯貝煉乳所の「鳳凰印」練乳は品質面でも評価され、明治屋にも特約販売された[8]。
1916年(大正5年)、竹沢太一(竹沢弥太郎の子[7])らによって「房総煉乳株式会社」が設立された(本店:大山村金束[8])。竹沢は、安房地域の牛乳加工業の不振を資本が過少であることに求め、群小の業者(ほとんどが個人経営だった)の糾合を目指し、大山村の磯貝煉乳所を買収して磯貝を取締役に迎え、会社を設立したのであった[8]。1917年(大正6年)4月16日、明治製糖が房総煉乳に資本参加し[8]、以後その資本力で安房郡の煉乳工場をほぼ手中に収めた[8]。房総煉乳は1920年に明治製糖傘下の東京菓子株式会社(のちの明治製菓)と合併して解散するが[8]、その事業はのちの明治乳業に至ることになる。
交通
[編集]道路
[編集]名所・旧跡・祭事
[編集]人物
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “大字別世帯数および人口” (pdf). 鴨川市統計書 平成28年版. 鴨川市役所. pp. 18-19. 2018年3月30日閲覧。
- ^ 郵便番号検索
- ^ a b c d e f g h i j k l 千葉県安房郡教育会 編『千葉県安房郡誌』千葉県安房郡教育会、1926年 。
- ^ a b “高蔵神社について”. 高蔵神社. 2018年3月29日閲覧。
- ^ 『日本近代酪農・乳食文化の源流 嶺岡牧』(pdf)千葉県酪農のさと/嶺岡牧研究所 。2018年3月28日閲覧。
- ^ a b c d e 「大山村」『明治22年千葉県町村分合資料 十八 長狭町村分合取調』、16-19頁 。2018年3月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “安房酪農の歴史”. JA安房. 2018年3月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 佐藤奨平「日本練乳製造業の経営史的研究 ―安房地域を中心として―」(pdf)『乳の社会文化学術情報』第2巻、乳の社会文化ネットワーク、2015年2月、31-55頁、2020年11月17日閲覧。
- ^ “竹澤太一”. 『人事興信録』データベース. 2020年11月17日閲覧。
- ^ “竹澤太一”. サンパウロ人文科学研究所. 2020年11月17日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 千葉県安房郡大山村 (12B0020024) - 歴史的行政区域データセットβ版