堀川具親

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堀川具親
時代 鎌倉時代後期
生誕 永仁2年(1294年
死没 不明[1]
別名 堀川内大臣
官位 正二位内大臣右近衛大将
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇後醍醐天皇光明天皇
氏族 村上源氏庶流堀川家
父母 父:堀川具俊、母:二条為藤[2][3]
養父:堀川具守
兄弟 顕基具親
具雅具孝具信具言[4]
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堀川 具親(ほりかわ ともちか)は、鎌倉時代末期の公卿堀川内大臣と号す。官位正二位内大臣右近衛大将淳和院別当、奨学院別当、源氏長者。実父は権中納言堀川具俊だが、祖父内大臣堀川具守の子として家嫡に擬せられた。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

堀川家最後の近衛大将[編集]

具親は養父である具守に続いて村上源氏堀川家では2人目の近衛大将である。しかし同時に堀川家では具親以後に近衛大将に任ぜられる者は出なかったため、具親は堀川家最後の近衛大将となった。

村上源氏堀川家の凋落[編集]

具親の養父具守は娘基子(西華門院)が後二条天皇の生母となったため後二条天皇の外祖父である。しかし、後醍醐天皇は後二条天皇の系統に皇位を伝える意思をもっていた後宇多天皇に反する意思を持っていたとされる[21]。さらに持明院統による北朝政権下では大覚寺統の外戚であった堀川家は微妙な立場にあったと考えられる。具親の息男たちが次々と若年で死去したこともあり、堀川家の家運は下降線をたどることになる。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 暦応3年/興国元年(1340年)7月に出家した。三男具信文和4年/正平10年(1355年)12月に参議に任ぜられた際の尻付けには「入道内大臣正二位具親公男」とあるため文和4年段階では存命しており、後述のようにその翌年延文元年/正平11年(1356年)まで存命していたと考えられる。
  2. ^ 権中納言
  3. ^ 『尊卑分脈』によれば従二位参議二条為雄の娘。
  4. ^ 『尊卑分脈』によれば祖父具親の子として家を継いだことになる。とすると、具親は具信が薨じた延文元年/正平11年(1356年)まで存命していたことになる。
  5. ^ 永福門院御給。
  6. ^ 遊義門院御給。
  7. ^ 遊義門院御給。
  8. ^ 院御給。
  9. ^ 父具守が従一位大納言を辞すに先立って任ぜられた。堀川家で参議を経ずに権中納言に直任されるのは具親が初めてである。
  10. ^ 代わって検非違使別当に補せられたのは北畠親房である。
  11. ^ 元日節会への出仕を避けたため。
  12. ^ 皇太子立坊による。
  13. ^ 『増鏡』第13「秋のみ山」によると、後醍醐天皇の女官であった大納言典侍を見初めて連れ出してしまったことを後醍醐天皇が咎めたため。
  14. ^ 後任の淳和院別当は上席の北畠親房である。
  15. ^ 前中納言11人を超えての昇進である。12月23日には拝賀のために着陣した。
  16. ^ 祭事に不参のため。また、かつてあった密通事件にもよる。
  17. ^ 久我通相が10代前半とまだ若年であったことも関係している。
  18. ^ 中宮が女院となったため。
  19. ^ 饗禄の仰せはなかった。
  20. ^ 上表に及ばなかった。
    • 暦応元年6月に菩提心を起こして出家した息男具雅(出家時には参議従三位右衛門督検非違使別当。『尊卑分脈』では具尹とある。)が7月7日に21歳で早世したため、即出家したという。
  21. ^ 『増鏡』による。

参考文献[編集]