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伊東長丘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊東長丘
時代 江戸時代中期
生誕 元禄10年1月28日1697年2月19日
死没 天明2年10月10日1782年11月14日
改名 熊之助(幼名)、長広、長丘
戒名 実相院悠岳浄久
墓所 高林寺文京区向丘
官位 従五位下伊豆守[注 1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
備中岡田藩
氏族 伊東氏
父母 伊東長救、堀田氏
兄弟 小笠原貞通正室、長丘長煕
岡部長威正室、池田長興正室、まつ ら
大久保教寛本多助芳
長詮石河貞通木下俊徳正室、
内田正良正室、三枝守恭継室、
松平康休継室、三枝守恭継々室、
永見為糾正室ら
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伊東 長丘(いとう ながおか)は、備中国岡田藩6代藩主。第5代藩主・伊東長救の長男。

生涯

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幼名は熊之助。通称は内膳、主税。宝永5年(1705年)3月28日、将軍徳川綱吉にお目見えした。享保8年(1723年)3月5日、父長救の隠居により家督を継いだ。同年12月18日、従五位下伊豆守に叙任した[注 1]

享保14年(1729年4月12日、ヴェトナムより日本に渡来した象(広南従四位白象)が領内を通行し、川辺に止宿したため、藪のなかからこれを見物している。

宝暦13年(1763年)9月16日に家督を三男・長詮に譲って隠居した。隠居後、浄久と号した。天明2年(1782年)10月10日に死去した。享年86。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b 1737年元文2年)の萩藩主の参勤交代を記録した「元文2年 (1737) 御参勤御道中記録 但惣陸」の3月13日、川辺本陣に宿泊した際の記録には「伊東若狭守殿」と記載されている[1]

出典

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  1. ^ 萩藩主参勤交代の記録を読む -「元文2年 (1737) 御参勤御道中記録 但惣陸」- 第2版” (PDF). 山口県文書館公式ウェブサイト. 山口県文書館. p. 34. 2024年3月6日閲覧。