伊東長寛
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和元年7月24日(1764年8月21日) |
死没 | 嘉永3年6月11日(1850年7月19日) |
官位 | 従五位下播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉、家慶 |
藩 | 備中岡田藩主 |
氏族 | 伊東氏 |
父母 | 伊東長詮、五島盛道娘 |
兄弟 | 長寛、朽木昌綱継々室、長庚、佐野貫行、松平康彊正室、木下俊昌正室ら |
妻 | 五島盛運養女、森忠興娘 |
子 |
長貴、長禎、天野富之、長之、長道、 長生、長世、高明ら |
伊東 長寛(いとう ながとも)は、備中国岡田藩8代藩主。第7代藩主・伊東長詮の長男。
略歴
[編集]安永7年(1778年)閏7月24日、父長詮の死去により家督を継いだ。天明2年(1782年)2月18日、将軍徳川家治に拝謁する。天明3年12月18日、従五位下播磨守に叙任する。
父の才を受け継いだ人物で、重臣の浦池九淵[注釈 1]を重用して藩政改革を行なった[1]。その結果、財政は再建され、寛政6年(1794年)には演武場である教学館を創設[1]、寛政7年(1795年)には藩校である敬学館を創設する[注釈 2]など、大いなる成功を収めた。
はじめ五男・長禎(早世)、のち十一男・長之を世子としていたが、長之は病弱だったために廃嫡し、長禎の長男・長裕を世子とした。
嘉永3年(1850年)6月11日に死去した。享年87。跡を長裕が継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「一万石に過ぎたるものが三ツある。一に浦池、二に新道(岡山県道280号市場川辺線#重複する道路(岡田新道)参照)、三に館の時の鐘」と言われたものの一つである[1]。
- ^ 岡田藩校 敬学館跡の石碑に「寛政7年 落成」と記されている。