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中根 (ひたちなか市)

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日本 > 茨城県 > ひたちなか市 > 中根 (ひたちなか市)
中根
中根の位置(茨城県内)
中根
中根
中根の位置
北緯36度22分58.4秒 東経140度33分27.04秒 / 北緯36.382889度 東経140.5575111度 / 36.382889; 140.5575111
日本の旗 日本
都道府県 茨城県
市町村 ひたちなか市
人口
2024年(令和6年)6月30日現在)[1]
 • 合計 10,691人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
312-0011[2]
市外局番 029[3]
ナンバープレート 水戸

中根(なかね)は、茨城県ひたちなか市大字郵便番号は 312-0011[2]

概要

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虎塚古墳十五郎穴、無土器時代の後野遺跡、弥生時代の東中根遺跡、元治甲子の乱で幕府軍の援軍として参加した福島藩士の墓(堂山共同墓地)など、遺跡や史跡に恵まれた地区である[4]。 中根は、鎌倉期に見える地名[5]常陸国吉田郷のうち[5]弘安田文に「中根十六丁六十歩」と見える(税所文書[6]/県史料中世Ⅰ)[5]。 中根の地名の由来は、中丸川と本郷川の間の台地、つまり「なかのね」という地形的な面から名づけられたと思われる。根はねもと、はじめを意味する[4]沖積低地にむかって舌状に突きだした大地の意味である[7]。 当地には、鎌倉後期築城といわれる中根城がある。一説では初め南酒出氏の一族で南酒出義頼の二男治義(中根治義)が居館、その後、山入与義の三男中根尾張守が居館したとある[5][注 1][注 2][8][注 3][9]文禄3年太閤検地を機に那珂郡に属した[5]慶長14年からは、水戸藩[5]元和の始め頃から寛政13年の間に、中根の打越勘解由を開発主とする農民が、中根、三反田、金上、柳沢、馬渡、平磯の連接した地に原野があったもの(現在の東中根と西中根南部の低地帯に東西に細長く横たわっていた、いわゆる入会地)を、開墾して新田にした[10]。六ヶ村に連接した地なので、六ヶ新田(中根六ヶ新田)と称した[10]天保12年に六ヶ新田は中根村と別村になり六ヶ新田村と称した[10]明治22年柳沢・部田野・中根・東石川の4か村が合併して那珂郡中野村が成立した。昭和29年からは勝田市大字となった。平成6年に行われた市町村合併により現在はひたちなか市に属する。

世帯数と人口

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2024年(令和6年)6月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
中根 4,766世帯 10,691人

交通

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鉄道

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当地内に鉄道は通っていない。 なお、ひたちなか海浜鉄道湊線中根駅柳沢にある。

バス

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道路

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市の施設

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  • ひたちなか市埋蔵文化財調査センター

学校

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寺社

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  • 吉田神社(中根2735番地)西中根分は、元禄9年正八幡を改めた吉田明神社(鎮守帳)[5]
  • 鹿島神社(中根3409番地)東中根・本中根分は、鹿島明神社(鎮守帳)[5]
  • 熊野諏訪神社(中根5081番地)
  • 正安寺(中根3542番地)
  • 福乗院(薬師寺)天保時代に水戸藩が断行した寺社改革で廃寺(茅葺屋根の四ツ足門・薬師堂がある)[11]。もとは、東中根の薬師台に建てられた[12]

温泉

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  • 中根の湯 はこや旅館 弱食塩冷鉱泉(神経痛・関節痛・腰痛などに効く)

参考文献

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  • 角川日本地名大辞典『角川日本地名大辞典, 第8巻』角川日本地名大辞典編纂委員会、角川書店、1983年、1617頁。ISBN 4-040-01080-9 
  • 茨城県の地名『日本歴史地名大系 第8巻 茨城県の地名』平凡社、平凡社、1982年、977頁。ISBN 4-582-49008-5 
  • 勝田市史編さん委員会 編『勝田市史 中世編・近世編』1978年。 

脚注

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注釈

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  1. ^ 中根城の城主の系譜について、小宮山楓軒の『水府志料』は、「何人の居処なる事を知らず」としている。これに対して、小田野辰之介の『常陸史略』には、佐竹の一族、南酒出弥太郎義頼の二男を那珂郡の中根に配して中根氏としたが、その後、山入与義の三男言義が中根に移り、中根尾張守と称したと記されている。南酒出家の初祖となった義茂は、佐竹秀義の子で、佐竹六郎と号し、承久3年、宇治川の合戦で先陣の功をたてた人物である。中根氏となった治義は、義茂から数えて五代目なので、中根に土着して中根城を築いた年代は、鎌倉時代後期ごろにあたる。中根居住の推定年代は、これでよいのであるが、問題は治義が土着した中根の地が市域の中根なのか、それともほかの中根の地なのかということである。『水府志料』が、「何人の居処なる事を知らず」としたのは、その判断に迷ったからである。
  2. ^ 南酒出氏略系図 義茂(南酒出家初代)-義行(2代)-義俊(3代)-義遠(4代, 田谷氏祖)-義頼(5代, 森戸氏祖)-義長(6代)(義長の弟, 治義, 中根氏祖)(義長の弟, 義増, 笹葉氏祖)。
  3. ^ 中根城はその後、同じ佐竹一族の山入上総介義知の弟の言義が居城して、中根氏を称したと言われている。小田野辰之介の『常陸史略』では、言義を山入与義の三男とするが、「山入系図」では与義の子の祐義の三男となっている。もし、この伝えが正しいとすれば、山入言義は応仁から文明にかけての大乱の時期に、中根城に入ったことになる。中根城が中城を中核として、館出や屋敷などを周辺の要所に配置して、防禦設備をととのえたのは、この時期であろう。城内や付近から戦国時代の陶磁器や、土器片が出土するのも、この事実を裏付けている。『那珂郡郷土史』(塙泉嶺編)には、「佐竹氏の季年に至りて、中根大蔵なるもの居り、蓋し言義の子孫ならん」としている。佐竹氏の季年とは、佐竹氏治世の末年のことで、秋田に国替えになった佐竹義宣の時代をさしている。

出典

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  1. ^ a b ひたちなか市の人口と世帯数(常住人口)”. ひたちなか市 (2024年6月30日). 2024年7月15日閲覧。
  2. ^ a b 日本郵便 - 中根の郵便番号
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2020年7月11日閲覧。
  4. ^ a b ひたちなか市広報広聴課, 昭和の記事から1~中根のうつりかわり, 2015/06/26, 「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”中根(市報かつた昭和53年5月25日号掲載)
  5. ^ a b c d e f g h 角川日本地名大辞典 1983, p. 715.
  6. ^ 税所文書”. 茨城県教育委員会. 2020年7月11日閲覧。
  7. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 221.
  8. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 75.
  9. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 78–79.
  10. ^ a b c 茨城県の地名 1982, p. 211.
  11. ^ ひたちなか市ホームページ, 勝田第一中学区歩く会コースマップ
  12. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 178.

外部リンク

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