佐竹与義

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佐竹 与義(さたけ ともよし、生年不詳 - 応永29年閏10月13日1422年11月27日))は、室町時代の武将。常陸守護佐竹氏の一族。佐竹師義の子で、兄弟に佐竹言義(父師義の名乗り替えであるという説もある)、小田野自義。諱は興義とも。子に義郷祐義。父の代から常陸国山入を所領としていることから、山入 与義(やまいり ともよし)という名でも知られているが、与義やその子孫は存命中は佐竹姓を称しており、山入姓を用いたという記録はない(山入氏の項目を参照)。

生涯[編集]

応永14年(1407年)秋、常陸守護で一族の惣領であった佐竹義盛が危篤となると、義盛の娘婿であった上杉義憲関東管領上杉憲定の次男)に後継者の白羽の矢が立った。義憲は鎌倉公方足利持氏の後援を得て、佐竹義憲(後、「義人」に改名)として佐竹宗家を継いだのである。しかし、佐竹氏の庶流の多くが上杉氏からの入婿に反発しており、与義は反対派の急先鋒として稲木氏長倉氏らと結んで義憲と対立した。ただし、小田野氏を興した弟の自義は宗家方に属している。

応永23年(1416年)、鎌倉府と対立した前関東管領である犬懸上杉氏憲(禅秀)が持氏に対して乱を起こす(上杉禅秀の乱)と、与義も氏憲に呼応して挙兵した。翌応永24年(1417年)には室町幕府の介入もあって氏憲一派は自害し、乱は収束した。これによって与義は義人に降伏を余儀なくされたが、同年中に与義と結んでいた稲木義信が義人によって滅ぼされている。

禅秀の乱後も与義は京都扶持衆となり、独自に室町幕府との繋がりを持って義人に反抗的な態度を取り続けた。鎌倉公方持氏は京都扶持衆の諸将に対して警戒を強め、遂に応永29年(1422年)、義人らに与義の追討を命じ、与義は敗れて戦死した。

死後[編集]

山入佐竹氏は長男の義郷、次いでその弟の祐義が継ぎ、宗家との争いを継続した(山入一揆)。この争いは与義の死から80年以上が経過した永正元年(1504年)に与義の玄孫にあたる氏義が滅ぼされるまで続いた。

関連項目[編集]

脚注[編集]