ラディスラオ・マズルケビッチ
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1974年のマズルケビッチ(左側) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ラディスラオ・マズルケビッチ・イグレシアス Ladislao Mazurkiewicz Iglesias | |||||
愛称 |
エル・ポラコ (El Polaco)[1] マスルカ (Mazurka)[2] | |||||
ラテン文字 | Ladislao Mazurkiewicz | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ウルグアイ | |||||
生年月日 | 1945年2月14日 | |||||
出身地 | ピリアポリス | |||||
没年月日 | 2013年1月2日(67歳没) | |||||
身長 | 178cm[3] | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1963-1964 | ラシン | |||||
1965-1970 | ペニャロール | |||||
1971-1974 | アトレチコ・ミネイロ | 44 | (0) | |||
1974-1976 | グラナダ | 2 | (0) | |||
1976-1978 | コブレロア | |||||
1979-1980 | アメリカ・カリ | 36 | (0) | |||
1980-1981 | ペニャロール | |||||
代表歴 | ||||||
1964 | ウルグアイ U-20 | |||||
1965-1974 | ウルグアイ | 36 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1988-1989 | ペニャロール | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ラディスラオ・マズルケビッチ(Ladislao Mazurkiewicz, 1945年2月14日 - 2013年1月2日)は、ウルグアイ・マルドナド県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元ウルグアイ代表。ポジションはゴールキーパー。ポーランド系ウルグアイ人[1]。1960年代から1970年代の南米を代表するゴールキーパー[4]、あるいはウルグアイサッカー史上最高のゴールキーパーの一人と評されている[2]。
経歴
[編集]クラブ
[編集]マズルケビッチはポーランド出身の父とスペイン出身の母との間に生まれた[1]。モンテビデオ郊外のラシン・クラブ・デ・モンテビデオで育ち、当初はディフェンダーを務めていたがクラブの幹部から不適格と見做され、15歳の時にゴールキーパーへ転向した[1]。また、少年時代にはサッカーのほかにバスケットボールの選手を務めており、サッカーよりもバスケットボールに傾倒した時期もあったが、この経験がキーパーに必要な敏捷性やジャンプ力をもたらした[1]。
キーパーに転向後すぐに頭角を現し、1963年にラシンとプロ契約を結ぶと[5]、1965年にCAペニャロールへ移籍した[1]。当初はルイス・マイダナが正キーパーを務めていたが、同年に行われたコパ・リベルタドーレス準決勝のサントスFC戦からポジションを獲得[4]。1966年の同大会決勝ではアルゼンチンのCAリーベル・プレートを下して優勝、さらにインターコンチネンタルカップではスペインのレアル・マドリードを相手に無失点に抑えて優勝に貢献した[4]。また、1968年に行われたダヌービオFC戦から同年10月13日に行われたCAリーベル・プレート戦にかけて985分間無失点という国内記録を打立てており[2]、2003年にグスタボ・ムヌアがこの無失点記録に迫ったが記録更新は逃した[2]。
1971年、ブラジルのアトレチコ・ミネイロへ移籍し評価を得た後[4]、1974年にスペインのグラナダCFへ移籍したが手首の怪我のため2シーズンに2試合の出場に止まった[5]。その後、チリのCDコブレロア、コロンビアのアメリカ・デ・カリでプレーした後、古巣のCAペニャロールに復帰し1981年限りで現役を引退した[5][6]。
代表
[編集]ラシン在籍時の1964年にU-20ウルグアイ代表に招集され、コロンビアで開催された南米ユース選手権に参加したが、正キーパーはペニャロールのエドゥアルド・ガルシア・バルガラが務めたため出場機会はなかった[7]。
ウルグアイ代表としては1965年1月に行われた東ドイツ代表戦でデビュー[8]。1966年にイングランドで開催された1966 FIFAワールドカップではグループリーグをフランス代表戦でのPKによる1失点に抑えイングランド代表次いで2位で決勝トーナメントに進出[1]。準々決勝ではウルグアイが2人の退場者を出したこともあり西ドイツ代表に4失点を喫して敗れたが、マズルケビッチ自身は大会を通じてソ連のレフ・ヤシン、イングランドのゴードン・バンクスと並ぶ世界的キーパーとの評価を得た[1][4]。
1967年、地元ウルグアイで開催されたコパ・アメリカではパラグアイ代表戦とアルゼンチン代表戦の2試合に出場し優勝に貢献[9]。1970年、メキシコで開催された1970 FIFAワールドカップでは準々決勝までの4試合で1失点に抑えたが、準決勝ではブラジル代表に1-3、3位決定戦では西ドイツ代表に0-1のスコアで敗れ4位という結果に終わった[1]。一方、この大会でも安定した守備を見せたことから大会NO.1キーパーという評価を得た[1][5][6]。
その後、代表から遠ざかっていたが1974年に西ドイツで開催された1974 FIFAワールドカップの直前にウルグアイサッカー協会が所属クラブのアトレチコ・ミネイロに対して違約金を支払う形で呼び戻された[1]。この時期のウルグアイ代表は低迷期にあり、マズルケビッチ自身は往時のプレーを見せたものの、グループリーグで敗退した[1]。同年6月23日に行われたスウェーデン代表戦が最後の試合出場となった[10]。ウルグアイ代表としての通算成績は国際Aマッチ36試合出場[10]。
引退後
[編集]現役引退後はサッカー指導者に転じ、1988年から1989年にかけて古巣のCAペニャロールの監督を務めた[11]。2002年に日本と韓国で共同開催された2002 FIFAワールドカップではウルグアイ代表のゴールキーパーコーチ[12]、晩年はCAペニャロールのゴールキーパーコーチを務めた[2]。
2013年1月2日、呼吸器疾患のために死去[13]。67歳没。
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- ペニャロール
- プリメーラ・ディビシオン : 1967, 1968, 1981
- コパ・リベルタドーレス : 1966
- インターコンチネンタルカップ : 1966
- アトレチコ・ミネイロ
- カンピオナート・ブラジレイロ : 1971
代表
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 「スーパースター列伝 11 ラジスラオ・マズルケビッチ」『サッカーダイジェスト』 1981年11月号、日本スポーツ企画出版社、112-114頁。
- ^ a b c d e “Ladislao Mazurkiewicz”. padreydecano.com. 2016年10月29日閲覧。
- ^ https://www.fifa.com/news/goalkeepers-who-belied-their-size-1544328
- ^ a b c d e 週刊サッカーマガジン 編『サッカーマルチ大事典 改訂版』ベースボール・マガジン社、2006年、464-465頁。ISBN 4-583-03880-1。
- ^ a b c d “Mazurkiewicz, el gran portero uruguayo”. EL PAÍS (2013年1月3日). 2016年10月29日閲覧。
- ^ a b “Uruguay legend Mazurkiewicz passes away”. FIFA.com (2013年1月3日). 2016年10月29日閲覧。
- ^ “Sudamericanos sub-20: 50's y 60's”. Asociación Uruguaya de Fútbol. 2016年10月29日閲覧。
- ^ “A seguir atajando "Polaco"”. Asociación Uruguaya de Fútbol. 2016年10月29日閲覧。
- ^ “Southamerican Championship 1967”. rsssf.com. 2016年10月29日閲覧。
- ^ a b “Uruguay - Record International Players”. rsssf.com. 2016年10月29日閲覧。
- ^ “Planteles Históricos”. campeondelsiglo.com. 2016年10月29日閲覧。
- ^ “Report-Umschlag gesamt.indd” (PDF). FIFA.com. p. 267. 2016年10月29日閲覧。
- ^ “Former Uruguay keeper Mazurkiewicz dies at 67”. TEN SPORT. 2013年1月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月29日閲覧。
外部リンク
[編集]- ラディスラオ・マズルケビッチ – FIFA主催大会成績