ベンジャミン・スタントン
ベンジャミン・スタントン | |
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Benjamin Stanton | |
第35議会にて | |
アメリカ合衆国下院議員 オハイオ州第4選挙区選出 | |
任期 1851年3月4日 – 1853年3月3日 | |
前任者 | モーゼス・ブレッドソ・コーウィン |
後任者 | マティアス・H・ニコルズ |
アメリカ合衆国下院議員 オハイオ州第8選挙区選出 | |
任期 1855年3月4日 – 1861年3月3日 | |
前任者 | モーゼス・ブレッドソ・コーウィン |
後任者 | サミュエル・シェラバルガー |
第6代 オハイオ州副知事 | |
任期 1862年1月13日 – 1864年1月11日 | |
知事 | デイヴィッド・トッド |
前任者 | ロバート・C・カーク |
後任者 | チャールズ・アンダーソン |
オハイオ州上院議員 シャンペーン郡、ローガン郡、ユニオン郡選出 | |
任期 1841年12月6日 – 1843年12月3日 | |
前任者 | ダウティ・アッター |
後任者 | ジョン・ガブリエル・ジュニア |
個人情報 | |
生誕 | 1809年6月4日 アメリカ合衆国 オハイオ州マウントプレザント |
死没 | 1872年6月2日(62歳没) アメリカ合衆国 ウェストバージニア州ホイーリング |
墓地 | グリーンウッド墓地 |
政党 | ホイッグ党、野党、共和党 |
ベンジャミン・スタントン(Benjamin Stanton, 1809年6月4日 - 1872年6月2日)は、アメリカ合衆国の弁護士、政治家。オハイオ州選出連邦下院議員、オハイオ州副知事を務めた。
生い立ちと初期の経歴
[編集]1809年6月4日、スタントンはオハイオ州マウントプレザントにおいて、クエーカーの家系に誕生した。スタントンは学問的研究を積んだ後、洋服屋の仕事に就いた。その後スタントンは法律を学び、1834年にスチューベンビルで弁護士として認可を受けた。スタントンはベルファウンテンに移り、弁護士業を開業した。スタントンは地方検察官を経て、1841年から1843年までオハイオ州上院議員、1850年に州憲法制定会議代表を務めた。
連邦下院議員
[編集]スタントンはホイッグ党に所属し、1850年にオハイオ州第4連邦下院選挙区から連邦下院議員に選出された。スタントンは1851年3月4日から1853年3月3日まで連邦下院議員を務めた。スタントンは第32連邦議会に参加した。スタントンは1852年の選挙で敗れたが、野党候補として参加した1854年の選挙では勝利した。スタントンは続く1856年、1858年の選挙にも共和党から立候補し、勝利した。スタントンは1855年3月4日から1861年3月3日まで連邦下院議員を務め、第34連邦議会から第36連邦議会まで参加した。スタントンは第36連邦議会において、軍事委員会で委員長を務めた。
オハイオ州副知事
[編集]1861年、スタントンはオハイオ州副知事に立候補した。オハイオ州知事には同じ共和党のデイヴィッド・トッドが立候補し、2人は勝利を収めた。スタントンはトッド知事の下、1862年1月4日から1864年1月11日まで副知事を務めた。
晩年
[編集]1865年、スタントンはウェストバージニア州マーティンズバーグに移り、弁護士業を再開した。スタントンは1867年にウェストバージニア州ホイーリングに移り、弁護士業を継続した。
1872年6月2日、スタントンはホイーリング市内で死去した(62歳)。スタントンの遺体はホイーリング市内のグリーンウッド墓地に埋葬された。
外部リンク
[編集]- United States Congress. "Benjamin Stanton (id: S000801)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- Benjamin Stanton - Find a Grave
公職 | ||
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先代 ロバート・キーク |
オハイオ州副知事 1862年1月4日 - 1864年1月11日 |
次代 チャールズ・アンダーソン |