アラ・フバイル
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(アラー・フバイルから転送)
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名前 | ||||||
本名 |
アラー・アフマド・ムハンマド・イブラーヒーム・フバイル A'ala Ahmed Mohamed Hubail | |||||
ラテン文字 | A'ala Hubail | |||||
アラビア語 | علاء أحمد محمد إبراهيم حبيل | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | バーレーン | |||||
生年月日 | 1982年6月25日(42歳) | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 66kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1998-2002 | アル・アハリ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2002-2005 | アル・アハリ | 26 | (7) | |||
2005-2007 | アル・ガラファ | 49 | (30) | |||
2007-2008 | アル・クウェート | 17 | (6) | |||
2008-2009 | ウム・サラル | 24 | (9) | |||
2009-2011 | アル・アハリ | 3 | (1) | |||
2011-2012 | タリーア | 20 | (6) | |||
2012-2013 | ネジメ | 18 | (5) | |||
2013 | タリーア | 20 | (6) | |||
2014 | シトラ | 18 | (5) | |||
2014-2016 | マナーマ | 10 | (0) | |||
2017 | アル・ハーラ | 1 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
2003-2009 | バーレーン | 69 | (23) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アラー・アフマド・ムハンマド・イブラーヒーム・フバイル(علاء أحمد محمد إبراهيم حبيل、 A'ala Ahmed Mohamed Hubail、1982年6月25日 - )は、バーレーンの元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。
経歴
[編集]1997年にバーレーンのクラブ、アル・アハリ・マナーマに加入。若い世代の代表チームに度々招集され、多くの国際大会を経験した。2003年にはアテネオリンピックのアジア予選にもU-23代表の一員として参加。翌年の最終予選まで勝ち進み、同じグループに入った日本を最後まで苦しめた。
2003年、バーレーン代表監督を務めるクロアチア人のスレツコ・ユリチッチ (Srecko Juricic) によって見出され、A代表に招集される。2004年に開催されたアジアカップでは、バーレーンのカウンター戦術の核として活躍。準決勝の日本戦では自慢の快足で日本守備陣を翻弄し、2得点を挙げた。最終的にチームは4位に終わったが、自身計5得点を挙げ、アリ・カリミ(イラン)と共に大会得点王に輝いた。また同年度のアジア年間最優秀選手賞にもノミネートされた。
その後2006 FIFAワールドカップ・アジア予選においても主力選手として期待されたが、2005年2月にクラブチームでの試合で膝の靭帯を負傷し離脱。チームは大陸間プレーオフの末敗れた。
カタールリーグの2005-06シーズンでは、開幕にこそ間に合わなかったものの、シーズン後期に復帰しゴールを量産。終了時には得点ランキング4位にまで食い込んだ。
2011年、バーレーン政府への抗議デモに賛同したとして逮捕される。同国代表及び国内リーグでの活動停止処分を受けたため、国外への移籍を余儀なくされた[1]。
人物
[編集]- 同じくバーレーン代表選手のムハンマド・フバイル (Mohamed Hubail) は兄。
脚注
[編集]- ^ 関塚ジャパンに追い風!バーレーン代表が壊滅危機 スポーツ報知、2011.11.01