管狐
管狐(くだぎつね)とは、日本の伝承における憑き物の一種である。長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある[2]。関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる[3]。
管(竹筒)に収まるほどの小型の生き物の様だが、普通はその使い手にしか姿は見えない。使い手は、クダ狐の力で他人の過去を言い当てたり、未来を予言出来たりといった占術が使えるとも、また、他人に災いをもたらす呪術を使えるともされた。伝承される地方では、家が栄えると、それはクダ憑きの家だからと不名誉な噂を立てられることがあった。娘が嫁ぐ度、75匹の眷属を伴っていくという言い伝えがクダや同系の妖怪について語られる。
語源
竹筒の中に入ってしまうほどの大きさなのでその名がある[3]、または尾が管を二つ割にしたようなのでそう呼ぶ、と説かれる[4]。柳田国男は、「クダ」は田の神が「山を降る」ことの意味ととらえた[5]。
概説
山伏などがクダギツネを竹筒で持ち運びし、出没させてみせる、という伝承がみられる[1][6]。あるいは使い主が懐などに飼っており、その集めた情報を耳元に囁くので、その使い手(狐遣い)は、他人の過去や未来を言い当てることができるのだという。また、使い主以外にその姿は見えないとも伝わる[4]。食事を与えると人の心中や考えを悟り、飼っている山伏に告げるともいわれる[7]。
その大きさについては、江戸期の随筆『甲子夜話』(1841年)によれば[6][8]、文政5年/1822年[注 1]、大阪で入手され江戸で見世物になった[注 2]というクダギツネの個体は(尻尾含めず)全長1.2–1.3尺 (36–39 cm)の個体あったとしているが[注 3]、柳田國男はこの例は最大サイズ級のもので、小さいものでは鼬ほどのサイズ(30cm弱?)であろうと意見している[1][注 4]。
その小ささの形容では、ハツカネズミほど[9][注 5]、マッチ箱くらいの大きさ等、様々な大きさの比喩がある[11]。
『想山著聞奇集』(1850年)にも挿絵があるが、顔は猫、身体は獺(カワウソ)似、毛は鼠色で大きさはリスほど[1]、尻尾は太かったとされる[注 6][12][1]。
『善庵随筆』(1850年刊)の記述では、イタチ(鼬鼠)ほどの大きさで、目が縦(竪)についているほかは野狐に同じだが、ただし"毛は扶疎として蒙戎たらざるなり(繁茂して乱れていない)"としている[13][14][15]。善庵が実見したのは、飯田町堀留(現・堀留橋付近)の町医者、伊藤尚貞が患者の皮膚下から摘出というものの皮標本だった[6]。
元々管狐は、山伏が霊山で修学を終えた後、金峯山や大峯等の山伏の官位を出す山から授かるものだとされる[7]。また、狐使いが死ぬと関東の狐の親分の膝下の王子村に棲む様になるといわれ、そうした管狐は使役者がいないので人に憑かないとされる[7]。
飯綱
飯綱は、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)など宗教的職能者が持っていて、通力を具え、やはり占術などに使用される[18]。しかし、こうした予言だけでなく、依頼者の憎む人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの活動もすると信じられている[18]。
飯綱はまた、飯縄大権現の使いとされる[18]。よって術者(飯綱使い)は飯縄権現を信仰する行者の場合もあるが、必ずしもそうとは限らない[19]。
飯綱使いが使役する狐の取得方法については、術者が精進潔斎し単独で山に行き、子を孕んだ母狐を訪ねて自分の養子とすると説き、出産まで餌などの世話をすることで、呼べばいつでも来る狐のしもべを得られるという旨が、『老媼茶話』中(「飯縄の法」の節)に記載されている[注 7][20]。
狐憑き
狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「クダ持ち[21]」「クダ屋[3][1]」「クダ使い[3]」「くだしょう[22]」等と呼ばれて忌み嫌われた[23]。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに行動することが特徴と考えられている[3]。クダもオサキも尾が裂けて太いが、島根の
管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが[11]、初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は75匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている[11][3]。この75匹に増えるという話については、クダ持ちやオサキ持ちのレッテルを張られた家があまりに増えたため、それを説明するために、嫁入りのたびに75匹の眷属を伴って家庭に入るという俗説が生まれたのだとされる[25][注 8]。
脚注
注釈
- ^ 柳田は「文政五年の五月」とするが原図には「壬午の正月末」と付記される。
- ^ 原図は"御蔵前みせものの図"と題する。
- ^ これは柳田が「體一尺二三寸、尾が九寸五分」しているが、引き算で出したのは明らかで原文では"兒狐鼻の先より尾の末迄一尺九寸餘尾の長さばかり六寸五歩ほど身高さ背のところ八寸五歩ほど腹の廻り九寸二歩ほど"とある。
- ^ 『甲子夜話』では、"鼬よりやゝ大きく"という例に触れているが、これは善庵が(善庵随筆、後述)見たという皮の標本のことである[6]。
- ^ 井上円了は「オサキギツネ」も"色白く、大きさは二十日鼠ほどなり"と記している[10]。
- ^ 享和年間、信州伊那郡松島宿で医師の縣道玄(あがた・どうげん)が退治したと記される。
- ^ 1742年刊行。松風庵寒流こと三坂春編(みさか・はるよし)の著。
- ^ 島根県に伝承される外道(ゲドウ)や[26]、広島・鳥取県などのトウビョウについても75匹を一団とする伝承があると柳田は指摘する[27]。
出典
- ^ a b c d e f 柳田 1964, p. 61.
- ^ 石塚 1959, pp. 22–23.
- ^ a b c d e f 石塚 1959, pp. 28–34
- ^ a b 井上 1896, pp. 193–194.
- ^ 柳田国男「狐信仰のこと」『定本柳田國男集』 別3、筑摩書房、1964年9月25日、68–69頁 。; 電子テキスト
- ^ a b c d 松浦静山「巻一 〇狐の種類にくだ狐と云ふ一種のもの..」『甲子夜話』《第一》國書刊行會、1910年、136–137頁 。
- ^ a b c 『妖怪事典』142-143頁。
- ^ 物集高見「管狐」『廣文庫』 6巻、廣文庫刋行會、1922年、149–150頁 。
- ^ 井上 1896, pp. 193–194引き『大日本教育新聞』記事:"信濃国伊予に、管狐と名くるものあり、其大きさは廿日鼠(はつかねづみ)ほどありて、尾は管を二ツに割りたるか如し故に管狐と云ふ、其躰は微小なれども、.."。
- ^ 井上円了 (1908). "をさきぎつね". 日本百科大辭典. Vol. 10. 三省堂書店. p. 610.
- ^ a b c 宮本 1980, pp. 103–104
- ^ 三好想山〈信州にてくだと云怪獣を刺殺たる事〉田山花袋; 柳田国男編校訂「想山著聞奇集巻之4」『近世奇談全集』、博文館、563-566頁、1903年(原著1850年) 。
- ^ 朝川善庵「信濃の飯綱権現」『百家説林』 正編上、吉川弘文館、1892 、672–674頁 。
- ^ 井上 1897, 第36節.
- ^ 石塚 1959, p. 32.
- ^ 井上 1896, p. 228.
- ^ 福田, 神田 & 新谷 2006, p. 365.
- ^ a b c 福田, 神田 & 新谷 2006, p. 40.
- ^ 柳田 1964, p. 103.
- ^ 小松和彦 著、田丸徳善; 村岡空; 宮田登 編「つきもの」『日本人の宗教 1 (情念の世界)』、佼成出版社、181頁、1972年 。
- ^ 柳田 1964, p. 105.
- ^ 『南信濃村史 遠山』長野県南信濃村、1983年
- ^ 柳田 1964, p. 70.
- ^ 柳田 1964, pp. 61, 67.
- ^ 柳田 1964, pp. 105–106.
- ^ 柳田 1964, pp. 70–71.
- ^ 柳田 1964, p. 79.
参考文献
- 石塚尊俊『日本の憑きもの 俗信は今も生きている』(復刊)未來社、1972年(原著1959年)。 NCID BN02482167 。
- 井上円了『妖怪学講義』 1巻、哲学館、1896年 。
- 井上円了「第三六節 狐狸論」『妖怪学講義』 2巻、哲学館、1897年 。 電子テキスト
- 福田アジオ; 神田より子; 新谷尚紀『精選日本民俗辞典』吉川弘文館、2006年 。
- 宮本袈裟雄他 著、桜井徳太郎 編『民間信仰辞典』東京堂出版、1980年。ISBN 978-4-490-10137-9。
- 柳田国男「おとら狐の話; 飯綱の話」『定本柳田國男集』 31巻、筑摩書房、1964年11月25日、49–102; 103–106頁 。; 電子テキスト
- 村上健司編著『妖怪事典』毎日新聞社、2000年。ISBN 978-4-620-31428-0。